メソッド? ドラマツルギー?(あいかわらず喃)
前回の記事の続きです。
演劇をやる理由はなんとなく分かった、アートでやりたいというのも分かった、そして、そこでの「やり方」みたいなものを掴み始めていて、それゆえに作家性の芽生えを感じているのだった、と公開したあとで思い出しました。
「実験ラボ」で試しつつ、『在るべき形へ』『万歳 2024edition』で実践できた気がしている、メソッドというかドラマツルギーというか、演劇を自分が作るうえで押さえておきたいポイントがあります。
上演を、“作品の上演”にするのではなく、“そこに集う人々が共通で過ごす時間が作品になる”ようにするというか。
まずわたし加茂が鑑賞する場合を例にしてみますと、
“作品の上演”の場合、まず加茂は劇場(上演会場)に行きます。時間になると開演します。加茂は舞台上の作品を観ます。やがて終演します。加茂は帰ります。多くの場合、加茂は上演中に着席してそれを観ていて、そして開演すると客席は暗くなり舞台上のみが明るくなります。終演すると客席が明るくなって、加茂は劇場を出て、日常の時間に戻っていきます。
すごくふつーのことだと思うんです。
これが演劇であるとすら言えるかもしれません。
なんですけど、いまの加茂はちょっと違和感を持っています。
まずこのとき、劇場にいる加茂は、すごく「作品」を「観ている」気がします。ここで客席にいる加茂は、いろいろな要素、レイヤーを持ち合わせています。28歳の男性として日常生活を送っている人間であるとか、演劇作家であるとか、悩みがあるとか、〇〇が好きとか、今日は〇色の服を着ているとか、まあそれらを同時進行で兼ねる人間で、そういう人がそこに居る。「居る人」でありながら、さらに「瞬きをする人」「考えごとをする人」「驚く人」という感じで行為のレイヤーも常時纏っています。なんだけれども、上演中はこれらのうちの「観る人」という役割のレイヤーが大きくかぶさる感覚があります。いま自分は芝居を観ている。そのうえで心を動かしたり考えごとをしたりしている。それをそう感じないときもいっぱいあるけれど、なんせなにかを観に劇場に行くわけだから「観る人」なのは当然です。でもこれを、「観つつ居る人」くらいまでなんとか持っていけないだろうか。作品を観ながら受けたインパクトに、上演中だけでなく、その後の人生まるごと揺るがされたい。上演中に自分に起きることを、“日常と切り離したなかでの体験”と知覚せずに、シンプルに“人生のなかでの体験”として引き受ける感が高まると嬉しい。「観る」が「見る」になるとよいのだろうか? とにかく鑑賞という態度を非日常の範疇からできるだけ引きずり下ろしたいのです。
このとき、舞台上にいる出演者もまた人間です。同じように「観られる人」のレイヤーが大きく占めると思うのですが、「観る人」が観ているのは“人”というよりはどちらかというとその動きや流れ、主題的なものをひっくるめた“作品”なのではないでしょうか。なので出演者は作品に奉仕する役割、例として「登場人物」というレイヤーを背負いやすいと考えます。これをまた、同じように、「観られつつ居る人」くらいまでなんとか持っていけないだろうか。上演という枠組みの矯正力は相当なもので、そして俳優というものはそう訓練してきているもので、その人が多層なレイヤーを同時進行しつつ、そのなかに役(出演者)のレイヤーを含みつつの人間であることを観客に忘れさせがちです。加茂はこれを忘れたくない。上演中、人間を見る人間でありたい。
それは、前回の記事で書いたように演劇をやる理由、ひいては生きながらやりたいことが今のところ“「他者と生きる」を検討したい”だからだと思います。演劇に触れる時間というものが、生きていることと線引きのないこととしてあって、地続きの一連の時間であるからこそ、その間に対面することを過不足なく受け取りたい(過不足なく受け取れていると感じたい)。
上演を“上演”として、演劇の魔力が最大限発揮される特殊な環境として優遇せず、作品を“作品”として常に客観視させない(しない)ことで、それが叶うのではないか。
重要だと思うのは、そんなことをせずとも、本当のところは、いろんなレイヤーが走っているだけで観客の自分も出演者もその時そこに居る人間であるという事実です。
別に、ふつーに、人間なんですよね。人間が見ているし、人間が見られている。
けれど、演劇の上演は、現在一般的なかたちではその没入度を高める方向に、“リアリティ”みたいなのを追求する方向に、“演劇”を日常と切り離してその密度を高めるように進化してきていて、それはつまり人間であることを忘れさせるように進化してきたとも言えると思っていて、だから、その事実の部分を意識に保持し続けるのは難易度が高いと思うのです。
その進化についてはそりゃ当然というか。語りたいこと、提示したいこと、提起したいことがあるから演劇は作られてきた部分が大きいでしょうから、それドンとその場に置くために、日常のもろもろなんかは邪魔な存在だと思われるでしょう。
しかし。
いまの私にとっては、日常の諸々なんかが引き連れられていることのほうが重要なんですね。その人間性みたいなものが緩衝材になってしまって、ドンというインパクトが薄れることになったとしても、衝撃のログが現実内に残ることの方を大切だと思っている。
なので、この進化の成果をフルに享受することをしない、ということをします。してみています。
発表者「いまから作品を上演します。観て!」
鑑賞者「OK、観る!」
という演劇上演の約束に気安く乗らない。
人間であることを忘れる方にアシストしない。
ここでまたたぶん重要なのは、アシストしない、というところで、つまり演劇の上演の枠組みから完全に降りるということではなくて、乗るところは乗るけれど枠組みの力を強化しないということです。
客席が舞台と対面にあるとか、開演時に暗転が挟まるとか、俳優に役名があるとか、台詞があるとか、衣装があるとか、そういうことごとを完全に拒否するわけではなくて、ぜんぶ辞めたらちょっと演劇作れなくなっちゃうし、それを完全に辞めても演劇を名乗れるかどうかを検討したくなるかも、でもいまのところそこまではしたいと思わない。する必要があるとも思っていません。なので「演劇」をやるということは今のところ決めていて、だから「演」があり「劇」があるというところは担保します。そのためこれらの要素を用いるときも用いないときもある。けれど、過剰に「演」や「劇」を持ち込まない。
ベースは、そこに居る人間です。「居る人」のレイヤーが見る方も見られる方も大きく(できれば最大で、かつそれのみではない状態で)占めていることをキープしたい。
それができているかどう判断するのか難しいけれど、本人と作家の感じ方で判断するしかないなのかなと現状思っています。
出演者本人も「居る人」である部分をしっかりと認識できていて、そうあれるように作家がデザインする。見る人本人にもまたその認識があり、それと同時に出演者が「居る人」でもあるように感じられる、見えるように、双方向でデザインをする。
例えば加茂が出演している場合。
舞台上の人間を「加茂慶太郎だ」と知覚しうるようにしておく。
その人間の行為を「加茂が〇〇している」と認識しうるようにする。
それを否定せざるを得ない材料を舞台上に持ち込まない。
例えば決まった感じでセリフの応酬をするとか、すごいモノローグを語りだすとか、こういうのが入ってくるととても紛らわしい。「加茂慶太郎だ」と知覚しうる状態でもあるが、すごく「〇〇(役名)だ」と登場人物として見えてしまいやすい。あるいは、「加茂慶太郎という俳優が〇〇を演じているんだ」と捻れて認識されてしまいかねない。ここで大切にしたい“行為”はそういうことではない。役の付着しない純粋な当人の行為として認識できることを担保し続けたい。そして、光や転換で場面が切り替わるとか、音がちょうどいいタイミングで入るとか、“時間”や“感覚”の部分に手が加わる、“操作”のチャンネルが入ってくるといよいよ危うい。これらの手法は、“否定せざるを得ない材料”とまでは言えないけれど、本人がそこに居ることを否定する方向にアシストする力が強いから、とても慎重に扱わなくてはならないと思う。
いまのところは、まだこのラインを保ち続けることに自信がないこともあり、光や転換などの切り替えの効果を借りずに「現実にほんのり物語性を持ち込む」ことに取り組んでいます。
舞台上にいるのは基本的に本人、等身大のつるんとした人間で、基本的にその人がその上演中にその人として何かをしている。当事者の行為としてまず成り立たせる。そこに、極めてシンプルな流れを持ち込んで、「◯◯だから◯◯をしている」と解釈可能なようにする。
すると、「〇〇を考えているように見える」「この状況が〇〇に感じられる」などのフィクション性が生じうる。
現実として見ることを否定せず、また物語性を帯びうるように「演」と「劇」を盛りこみ、現実に太く根っこを張ったうえでの演劇をそこにつくる、というのをやっています。
・・・というところまでを、おそらく7月末に書いていて、おそらくこのあと、実験ラボやINDEPENDENT、万歳で具体的に何をしていたかを書くつもりだったと思うんですが、断念して下書きに眠っていました。
そのまま消しちゃおうかと思ったんですが、今読み返しても結構しっくり来る、言えてる部分もあるので公開します。
演劇の捉え方についてはまたこの頃から少し変わったと思います。
「他者と生きる」を探りたいというのもまた少し変わってきた気がします。変わらず持ち続けている気持ちだけれど、ド真ん中に居るのはそれではない気がする。