おそるおそる、演劇論(Ver.1(喃))
加茂慶太郎です。
マルレーベル『万歳 2024edition』で参加した四季の里演劇祭も終わり、福岡に帰ってきました。
先に控えているものもいくつかありますが、いったん、本番に向けてのリハーサルなどのない日々を送ります。
言葉を綴るのが本当に難儀で時間がかかるのだけれど、つくる演劇に言葉を割かないからこそ、こういうところでしっかりと言葉を書いておかないといけないと思っています。
急ですが演劇の話をします。
最近の 演劇観 みたいなもの
今年に入ってから「演劇作家」と名乗ることにして、だんだんそれが腑に落ちてきました。
・どう生きていたいのか(どう死にたいのか)
・それと演劇になんの関係があるのか(なぜ演劇をするのか)
・演劇でなにをするのか
└作品でなにをするのか、今なにをするのか
といったことごとが、ほわ~んと大きく広がって、シュルシュルとひとまとまとまりになったような。
とにかく一つ一つの演劇との手続きが生きることに直結する感覚が生まれた感じがしていて、とてもスッキリしています。
これは去年の『一等地』の頃にはなかった感覚で、4月の実験ラボ、6月のINDEPENDENT、そして四季の里演劇祭とかけて急速にシュリンクしたようです。
ともかくそれ以前と最近ではいろいろ考え方が変わったということなんですけれども、こうして考えが変わっていくのは自分は半年とか2〜3ヶ月のサイクルであることが多くて、1年前とかもうだいぶ別人みたいなとこもあるので、noteも1年以上前の記事は非公開にしていくことにしました。
ストーリーズみたいな。
今年のはじめらへんでは、「納得して生きること」が一番大事だと思って、それの方法とか、なにが納得なんだろうみたいな問いを、演劇していくなかで、そして各作品で対面していこうと思っていたんですけど、それが違うのかもしれないな、と思うようになったのがINDEPENDENTを終える頃でした。
いまは、「他者と生きる」ことの検討手段として演劇をもちいていきたいと思っています。
そしてそれのために演劇でなにができるのだろう、ということも並行して考えます。
まずどう生きていたいかなんですけど、これは自分にとっては死ぬときどうありたいかってこととほぼイコールというかめっちゃ地続きで、自分は死ぬとき「いやぁ〜いい人生だった、納得してるぜ」と思っていたいんですけど、それって自分で全部に責任を持って、納得感を持って日々生きていくことなんじゃないかと思って。今はまだ、それをできていないけれど、なるべく早くそうあれるようになりたい。というか、そんな段階なんてこないのかもしれない。それを目指してあれこれ更新刷新していくうちにもう老いて老いてヨボヨボでいつの間にか死んじゃうかもしれない、なにかに到達することなく、けれどそれを目指し続けながら、ときおり目標を変更しながら、ああかなこうかなと思案しながら、試して失敗しながら時を過ごしていくことが生きていくってことなのかもしれないな、それならそれでいいや。って思うようになりまして、27歳の終わりごろに、なんかようやく人生始まった感すらあるんですけれど、とにかく納得感を持って生きていきたいなぁと思うわけです。
そして、その納得感みたいなことの一つに、他者というものが出てくるんですけど、自分はどうにも、他人というものが生きてる人間であるということがいまいちピンときていないフシがある。子供の頃からそのフシがある。これをイカンと思う。ようになった、というべきか。一人では生きていけないのだということだけが先に理解できているみたいな状況になっている。他者に対して過不足のないリスペクトを持って向かえる人間になりたい。
急に話を大きくしますけど、ハラスメントとか戦争とかも、自分とは異なる考えや価値観を持っている人のことを許せないとか、軽蔑するとか、下に見ちゃうとか、そういうことなんだろうなと思うんですけども、そういうことにもう飽き飽きどころの騒ぎではなくて、なくなってくれ〜ってとっても思っていて、そこに悲観するんじゃなくて一応なんとかなっていくといいな、そのためになにかできたらいいな、という精神を現状持ち合わせているのですけれど、じゃあ理解できない他人というものに対して、拒否して否定するのではなくて、そこで加熱してしまうのではなくて、あくまでも冷静に、いまのところぜんぜん納得はできませんけど、尊重はしますよ、あなたが生きていること自体は否定しませんよ、まずそこで安心してから話しましょう、落ち着いて、より“よい”方を目指しましょうよ、現状では“よい”の捉え方に私たちの違いがあるんですね……うんぬんかんぬん、といった感じで居たい。
この「より“よい”方を目指す」という点でも合致できない場合には諦めざるを得ないのかもしれないけれど、この更新の歴史みたいなのがそのまま人類の歴史的なことかもしれないな、とまでなんだか最近思うようになりまして。
そして、本質的な“よい”ってことは本当に本当に少なくて、“よさそう”を信じてみては何かを掴んだりすることの繰り返し、つまるところの人生、を人間全体でやっていくこと、が大昔からずっと続いていてこれからも続いていくんだろうなと思ったりするようになりました。
資本主義とか、少なくとも自分が生まれたときからこの国ではそれが正解で、受け入れられていて、あまりにも当たり前なことだけれど、やっぱりそれは「主義」レベルのことに過ぎなくて、暫定的な正解でしかないということを踏まえて生きていたいと思うし、最近は「論理的」は好きだけど「合理的」はスゲー嫌だなとかも思うんですけれど。
となると、納得感を持って生きるというのは、まずその前に他人について、他人と自分について、それが集まっている私たちについて、向こう側にいるあなたたち、彼ら彼女らについて納得すること(そしてその手前に、まずそれを認めること、向き合うこと)がないと無理なんじゃないかと。
だから、納得して生きたいというのはそうなんだけど、それをもう少し具体的に言い換えた形として、「他者と生きる」に対面していこうと思うのです。
なぜ演劇をするのかというと、まずアートであるからかもしれないです。アートしたくなりました。アートしたい。
私はいまのところ、思うに、アートというのはそこで誰彼がなにかに向き合うこと、対面すること、そこで何かの変化を期待すること、その契機を得ようとすることの集合体と認識しています。何かを言うとか主張する云々を主とするわけではない態度。そういう態度を取りたい。期待したい。よく分からない他者に対して、何かを「言う・伝える」ことは現状難しいし。
そして、ではなぜ演劇なのかというと、演劇を作るには複数の人間が必要で、そして多くの時間や事柄を共有する必要があり、かつ複数の人間を必要とする営みのなかでは、企図から投機(発表)までのサイクルを比較的短いスパンで何度もおこなえるということが理由として大きいかと思います。
「誰かと何かを(納得感を持って)する」というのはとても難易度が高い、それを実現するためには合意したり意見を交わしたりしているべき事柄がとってもとっても多い、多すぎると思う。
ここらへんはマルレーベルというプロジェクトを始めたあたりでも考えていたことで、それは変わっていないと思うのですが、最近は、協同の最小単位である2名、私とあなたで納得感を持ってやりましょう、とコラボレーションをするということに注力しています。
直近の『万歳 2024edition』、『在るべき形へ』はそれがかなり大きい充足感をもっておこなえている感触があって、それを今後も続けていきたい、というかそれを失うくらいならそのタイミングで作品を発表しないほうがマシとも思うようになっています。
ところで、演劇じゃないとだめなのか、パフォーマンスじゃだめなのか、インスタレーションじゃだめなのかということは、ちょっとまだ分からず。
別にそこまでして演劇でなくてはならないとは現状思わないけれど、演劇ってやっぱりいいなと最近思っています。
「演劇」とは、(見られる/見る立場の「人間」が始めと終わりのある「時間」を共にするところに)「演」と「劇」があるもの、だと最近は考えています。
「演」とは(演技・演出その他効果によって)何がどう見えるかをデザインすること、「劇」とは物語性(行為の因果関係・心理の流れ)をそこに見いだせるようにすること(≒ドラマツルギーを持つこと?)だと、端的に言えばそういう感触なんですが、この両方がないと「演劇」だと言い張ることはできないと考えています。
すんごいざっくりのイメージだけど、パフォーマンスには「劇」がなくて、インスタレーションにはどちらかしかない、あるいは両方あっても見られる「人」がいない、始まりや終わりがない。これら全部が備わっている場合には“演劇とも呼べる”状態になっている、という認識です。
パフォーマンスではない、インスタレーションではない、とか区別することが大事ではなくて、演劇をやらないといけない、と思っているわけでもなくて、この2つ(4つ)の要素のバランスがいいというか、これらを備えようとすることがけっこう難しくて、かつ備わった場合の見ごたえというか、実感に結びつきそうな信頼感もあって、人生の一部を捧げて取り組むのにちょうどいい気がする、というめちゃくちゃ個人の感想なんですけど、この状態のことを「演劇」と呼ぶのが一般的であるなら、目印として「演劇」をやっていこう、作っていこうと思っているわけです。
というスタンスで「演劇作家」を名乗っています。戯曲を書く、演出する、あるいは出演するといった具体的な作業の手前に、見る/見られる人びとが時間を共有するところに「演」と「劇」を持ち込んで、未来を少しでも“よく”しようとする人。
さあ、そこで、「演劇」ならなんでもよいのかといえば全くそんなことはなくて、やはりアートでないとワクワクしない。アートっていうのはなんか偉そうでカッコつけみたいで気恥ずかしいのだけれどそれを名乗る覚悟を決めないといけない。(そのためにもっともっと勉強しないといけない。話が脱線しますけど、いま九州大学の大橋キャンパスで働いていて、芸術工学部なだけあって図書館に面白い本がたくさんあって、ひとまず演劇の本をいろいろ借りて読んでいます。演劇の勉強とアートの勉強をもっとしたい。これまで関心がなんとなくその外側に向いていた(ホールで働いたり、どんな事業が全国でおこなわれているか知るようにしたり)けれど、いまこそ本体のことを深く理解しなければならない!)
「演劇」にもいろいろあるのは承知しているつもりですが、自分がやりたいのは娯楽でも啓蒙でも啓発でも教育でも伝達でも継承でも再形成でもないのだ、と近頃強く思うのです。これは、「そうでなくちゃいけない」ということではなくて、どう生きたいかを端とする「やりたい」なので、他の演劇作家がなにを志向しているかに関しては全く関係のないことです。ビバ演劇。
28歳になって、演劇を始めて9年経って、ようやく作家性みたいなものが芽生えた気がする。いまはこうして喃語で長々書き連ねることが精一杯で、自分で読めばなるほどと思うけれど、これを人に理解してもらえるように出すのが次のステップです。
このあと、『万歳 2024edition』『在るべき形へ』「実験ラボ」それぞれについて、書いてきたような演劇論と照らして意図とかやったこと、その感触を書こうと思っていたのですけれど、力尽きました。別エントリーでよろしくお願いします。今月中には書きます。
読んでくださりありがとうございます。