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加茂は何に取り組むというのだ


実験ラボのチラシに、加茂は『「真に”リアルでない”演劇」を志向する、またその確立の有用性を検討する』と書きました。

志向するのは今回だけです。
これから「真に”リアルでない”演劇」を肩書に掲げてやっていこうと思ってるとかでは全くなく。




”リアリティ”みたいなことを排除した作品をつくってみたいな、つくったら面白いかな、俺はそれをどうやって作るかな、を試して確かめたい。

「リアリティの排除」というのは、演劇の大きな約束といったん縁を切るということ。(これもひとまず今回だけね)
「〇〇に見える」──「こういう性格の人に見える」「いま悲しんでいるように見える」「これをしているように見える」──みたいな、自分もこれまで演劇をつくるときに信頼していたような真実性を活用しないという態度。


観客にとって「〇〇に見える」ために、作り手は「〇〇(のように)に見せる」ということをする。ことが多いと思う。自分はしてきた。
というか演じるというのはそういうことではないか。
活用しないというのは、これをしないこと。
つまり、「見える」をデザインした「見せる」をしないこと。
これを今回やりたい。

活用しないだけで、「〇〇に見える」こと自体は否定しない。
笑顔で立っている人がいたとして、それを見て「嬉しそう」とか思うのは見る側の自由。
だけどそこで「嬉しそうに見せたい」から「笑顔で立つ」という手順を、作り手が踏まないこと、今回はそれにこだわりたい。


だからこの場合、笑顔のまま立っている人を舞台上に置こうとした場合、「笑顔のままで立ってください」という指示を俳優に渡すのも正確には間違っている気がして、「自身が笑ったときに使う頬や顔面の筋肉を同じように使って表情をつくって、それを維持したまま立ってください」といったように、分解して、客観的で事実性の高い指示としてお渡しするべきなんじゃないかと今のところ思っている。


今後、できるかわかんないけれど、そういうことに加えて、例えば摂理に反してみる(食べたのに目の前の食事が減っていない)とか、感覚に反してみる(ずっと緊急のサイレンが鳴っているのに平常である)とか、手順を無視してみる(布団を敷いたのに寝ない)とか(なんなら目はずっと開いたまま)(なんなら布団も床に敷かないで壁に敷くとか)(でも物理法則にあらがうことはできない)して、因果とか生理とか常識とかそういうことも徹底的に活用しない、という態度もとってみようと思っている。


今日試しに、宮崎さんに笑顔のまま立ってみてもらった。
顔の筋肉だけじゃなくて、笑うときの呼吸を運動としてやってみてもらったらより面白かった。



リアリズムの演劇から距離をとるスタンスは宮崎さんとおそらく(レベルの差こそあれ)共通していて、そのため今回の企画が実現している。

彼女の方は既に先日の公演『つかの間の道』で取り組んでいて、かつ手応えもあるようで、今回彼女はその先に行っている。文体の獲得と、その演出方法の仮説を打ち立てることを今回の実験ラボの目的としているそう。
『つかの間の道』では、戯曲があり、俳優はその言葉を発するのであるが、常時戯曲のシーン・場所と異なるイメージを浮かべて、身体はそちらに合わせるということが徹底された(らしい)。

これも「真に”リアルでない”演劇」のひとつの形なのだと思う。



つづく