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芸妓と旦那衆

 芸妓(げいぎ)とは、余り聞きなれない言葉ですが、
芸者と同じ意味を持ち、それに対し遊郭の妓楼で働く女郎さんのことを
娼妓(しょうぎ)と職業的に分けた表現の仕方となります。

 「妓(ぎ)」とは、訓読みで「わざおぎ」「うたいめ」といい、
歌舞を演じて、お酒の席で人々を楽しまる女性のことを指します。
芸に妓を足すことで、芸能の世界となり、
娼に妓を足すことで、歌舞などと共に身体を売るという意味を
併せ持つようになります。

 芸娼妓が集まる地域を花街(かがい・はなまち)或いは、
花柳界(かりゅうかい)や、遊里(ゆうり)などといいます。
ですので、芸妓も娼妓も一色単にされることが多いのですが、
芸妓の中では、芸事を極めるのが仕事で、
「芸は売っても、身は売らぬ」というプライドが、
彼女たちの支えとなり、それが禍いとなり
芸妓と娼妓がぶつかる事もあったようです。

 何故なら、花街・花柳界というのは、遊興しお金を落とす男性がいるから
こそ、成り立っており、売れっ子の芸妓や娼妓は、
遊里の世界での「旦那」を持つことで、その地位を確立していたという実態があるからです。

 ススキノの花柳界でも、旦那の後ろ盾がつき、
置屋のお母さんとなる芸娼妓が多数いました。
鴨々堂の置屋もその一つです。

 では、その芸者さんとは誰だったのでしょう。
昭和21年から創業している行きつけのおでん屋の女将さんに尋ねてみた所、
「あそこは、時丸姐さんの置屋だったと思うの。」とのこと。

 以前、おでん屋の女将から譲ってもらった、昭和33年に発行された
「札幌芸妓名鑑」で調べてみると、時丸という芸妓は、         その時点の写真で50歳前後でしょうか。
建物が建てられたのが大正の末期から昭和初期とされるので       可能性としては無きにも非ず。                    時丸姐さんには、時子、時江……と、妹芸妓がいたそうです。

 で、その旦那は?
今から百年近くも前の話しなので、流石におでん屋の女将でも      わからないとのことだったのですが、                 棟続きで数軒隣りに住んでいたという方などから、      
・ここの旦那は、尾崎天風という代議士だった。
・すぐ近くに立派な本宅があった。
この様な話を教えて貰う事ができたのでした。

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