前借5万円
梅島に住むようになって半年ほど経った頃、
昭和31年5月2日に、売春防止法案が国会に提出されました。
けれども君代は、新聞など読める立場でも無く、
居間に行けば親方の新聞があるにはありましたが、
女郎が新聞を手にするなんて、考えられない時代です。
そんな法律の事など、知る由もありませんでした。
身体はすっかり商売に馴れてきており、
朝起きるのが辛く、背中や腰が妙に張ります。
始めは、着物だ、家財道具だと親方や女将さんに薦められ、
用意され黙って納めてていた品々も、前借に上乗せされるという
からくりに気付いてからはプッツリと辞め、
君代は、なるべく借金をしないようにしました。
細やかな楽しみといえば、悪戯で覚えた煙草で一服することでした。
一箱30円の「光」という煙草が、唯一の道楽だったのです。
実家からは、毎月の様にお金の催促が届いており、
お客さんから頂いたご祝儀を貯めては、なんとか実家に送っていました。
この商売に入ったのは、母の為、家族の為と、
自分で身の振り方を決めたのですが、
その時は、こんな生活を続けていかなくてはならないなんて、
考える余裕もなかったのです。
二人が前借で借りた5万円という金額は、今の価値でいうと
一体どのくらいのものなのか、想像がつきますか?
国家公務員 8,700円/月収
高卒 6,600円/月収
大工日当 560円/1日
蕎麦・うどん一杯 30円
米10㎏ 1,080円
5万円というお金の為に、三年間の年季で契約をした彼女たちでしたが、
この時は、その代償の大きさに、まだ気付いていませんでした。