薄野誕生秘話
薄野・すすきの・ススキノ
今日は、そもそも薄野って何時から
そう呼ばれるようになったのかという話を
したいと思います。
明治2年の札幌の様子を髙見澤権之丞という
開拓使から雇われた人物が地図に残しているのですが、
その地図には、薄野一帯は茅野(かやの)と記されて
いました。
茅というのは、植物では無く茅葺屋根や
動物の飼料として使われる植物の総称なんですね。
主に、チガヤや、スゲ、ヨシ、ススキなどの
イネ科の植物を指します。
なので、開拓が始まる前の薄野は、こうした植物が
生い茂った野原だったようです。
中島公園付近は、牛蒡が成長し大木のようになって
いたそうで、大通公園付近はニレの木が多かったとか…。
現在の大通公園と創成川がクロスするあたりを
札幌の基点とし、島義勇判官が碁盤の目状に町を区割りし
現在の条丁目として、開拓事業は進められました。
明治になる以前の本府は、貿易港として早くから
開けていた道南の函館にありましたが、明治政府となって
からは、札幌にその機能を移し、
新たに本府を築くことにしたのです。
未開の地であった札幌の開拓作業は、
なかなかの困難をきたし、順調には進みません。
なんせ、原生林の木を伐り、根っこを抜き
道を広げていく労働の厳しさは生半可なものでは
ありません。
それに加え、全国から開拓の募集に応じた人々が
集まってきたわけです。お国訛りがきつくて、
言葉が伝わらず、意思の疎通が
ままならない状況だったのです。
そうした精神的な辛さも、開拓労働者がストレス
を抱える一因だったのでしょう。
労働者が逃げ出しまうこともしばしば。
さて、そんな時に政府が取った施策とは
どのようなものだったのでしょうか。
つづく