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北海楼の雨風

 薄野遊郭の人気者として、その名を馳せていた
おいしの双璧といわれていたのが遊女・雨風です。
雨風は、北海楼という妓楼のお抱え遊女でした。

 北海楼の楼主・高瀬和三郎は1829(文久12)年に
秋田県大館市の町役人の家に生まれており、父親は
岡っ引きだったそうです。
 21歳の時に函館に渡り商売人となり、明治4年に
薄野に移り翌年に北海楼を開きました。

 雨風は、函館出身とされているのですが、
和三郎が函館時代だった頃から「商品」だったのかも
知れません。

 雨風という源氏名の由来が、これまた
酷いもので、二目と見られぬほどの御面相で、
眼や鼻や口があるべき所に着いておらず。
まるで暴風雨にさらされた様な顔であるので
その名が付いたとのことでした。

 けれども雨風は、相当な芸達者だったそうで、
御座敷の場を持つのが上手く、旦那衆から
人気があったそうです。

 雨風は、南大通の西1丁目にあった鍛冶屋・
池田定吉のお妾さんとなり、狸小路に建てられたばかりの
長屋をあてがってもらい「安津満屋」という店の
女将となりました。

 安津満屋という店は、料理を提供しながら
女性との性交渉も提供しているような、
当時は、「あいまい屋」と呼ばれていた商売だったそうです。
 その後、鍛冶屋の定吉とは別の男性と結婚し、
子も設けたとのことです。

 花街に暮らす女性たちは、身体を酷使していた事や、
性病感染、無理な堕胎などを繰り返していた女性も多く、
子供が産めない身体となってしまっていた方も
それに比例していたといわれています。

 所帯を持ち、子供まで持つことができた
越中屋の台鍋や、安津満屋の雨風といった存在は、
花街に暮らす女性たちの等身大の幸せとして、
揶揄されながらも語り継がれたのかも知れません。


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