薄野誕生秘話 ②
札幌という新天地に本府を移し、都づくりを進めるに辺り、
労働者の足止めをする為に開拓使判官岩村通俊がとった施策。
それは、薄野に遊郭を設けることでした。
「此度北海道開拓人夫一万人程も差しつかわし候については、
遠隔の義、自然人夫共は厭惓の意を生じ候も計らい難し候につき、
妓楼を立ておき公然売女免許仕候。この段お届け申し上げおく候也」
こちらは、今でいうところの内閣府にあたる太政官の最高官庁である
正院に岩村判官が届け出た文面となります。
斯くして、南4条西3丁目西角と西4丁目の東門に
茅野の中に高さ10尺の木柱を立て、大門が築かれました。
大門とは、元は仏閣の最外部にある正門を指していましたが、
いつしか遊郭の出入口の呼称となったそうです。
薄野遊郭は、大門が北面の中央となり、
田の字型に2丁4方角とされ、その周囲を
4尺程度の土塁で囲んだとのこと。
1尺が30㎝なので、120㎝の囲いという事になります。
女郎さん達が逃げ出そうと思えば、容易に乗り越えられる高さですが、
当時の札幌の状況を考えると、逃げても身を隠すような場所もなく。
集落を離れると、熊やオオカミなどの野生動物に出くわす危険も高いので、
その程度の土塁だったのでしょうか。
この薄野遊郭が官許の遊郭では第1号であり、第2号は寿都遊郭と
日本海沿岸の漁場として栄えていた場所が続いて届出を出していきました。
最後に届出を受付られたのは明治40年で、小樽の手宮と、旭川の曙遊郭から
移転した中島遊郭だったそうです。