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晒し者たち

 明治3年から、開拓使が廃止される明治15年2月の間に、
罪を犯した人が裁きを受ける法律を新律網領(しんりつこうりょう)
といいましたが、札幌に於いては、明治政府初の刑法典が、
どうも正当に執行されていなかったという説があります。

 この間の実刑は、笞刑(むちけい)約200名中男74名。
杖刑(じょうけい)約100余名中男104名。流刑男1名。
斬罪(ざんざい※打ち首の事)男10名女2名で、
極刑である梟首刑(きょうしゅけい)女1名と記録されています。
梟首刑とは、打ち首の後に首を晒す刑の事です。

 笞刑は、賭博や傷害などの軽罪に適用された罪で、
牢屋前にて箒で叩き執行されます。
杖刑は、笞刑よりもう少し重い罪と判断された者に、
木刀などで打つ刑です。

この刑は、明治6年6月には改定律令により
笞杖刑が廃止されており、懲役刑に変わっていたものの
札幌では明治11年4月まで行われていた記録があります。

札幌に例外が認められていた理由として、
これから都市が形成される地域な為、百日以下の
懲役犯を服役させることが困難とされ、
本刑の執行が合法であると判断されていた様です。

 この例外が、国内に於いて類をみない
「裸体刑」という刑の執行を実行させたと思われます。

本刑は、姦夫姦婦に対し用いられた刑で、
罪人を丸裸にし、馬に乗せ大通りを引き回し、
また、全裸の男女を四つん這いにさせ開拓使庁前を
歩ませ、民衆の嘲笑に晒すものでありました。

 明治初期の人口比率は、土方人夫である男の数が圧倒的に多く
官許の遊郭を設置しなくてはならない程に、
男性の性の捌け口を必要とされていた為、
色恋沙汰で騒動が起こった際には、
姦通罪や淫売とみなされ
罰せられる女性も多かったようです。

 極刑である斬罪を受けた上に、晒し首となった女性は
女郎さんだったそうですが、今でいう不倫をしてしまい
恋に落ちた男性と斬首刑にあった後、
更に東本願寺札幌別院の敷地内にて
晒し首となったとの事でした。

 


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