釧路 米町遊郭
昭和30年6月4日。
君代と慶子は、周旋屋の目口に連れられ、故郷の森町を後にしました。
丸一日掛りで三人を乗せた列車は、6月5日午前7時を少し過ぎた頃に
急行「まりも」を釧路駅の一番ホームに滑り込ませると、彼らを下ろし、
白い煙を何度も吹上げ、最終駅となる根室へ向かって行きました。
駅の構内は、大きな荷物を背負った行商風の人々が盛んに行きかい、
俄かに活気づいています。そうした人ごみの中でも、着古して糊の効かなく
なった着物に、歯が削れて薄くなった下駄を履き、両手に風呂敷包みを下げ
た二人の姿は、端目にも粗末な身成りに映っていました。
一方、目口吉之助は周旋屋らしく、ハンチング帽と揃いの背広で妙に粋がっ
ています。
兎にも角にも、君代は家を発って以来、母が持たせてくれた麦飯の御握り
を分けて食べただけだったので、とても空腹でした。
「お腹空いたべ。そこの蕎麦屋に入るか。」
列車の中では、ひたすら「しっかりと奉公しないと、母親が大変な目にあ
う」と恫喝していた周旋屋でしたが、蕎麦屋への誘いが、それが最初で最後
の人間らしい言葉だったのではないでしょうか。
目口が目指した、駅前広場を挟んだ右手にある「釧正館」という蕎麦屋
は、大正6年12月に創業をした店で、現在は「釧祥館」として駅弁の販売や
レストランの経営へと業態を変えながらも、現在も釧路で操業しています。
この時二人は、かき揚がこんもりと入った天ぷら饂飩を食べたそうです。
さらっとした醤油味に幅広の手打ち麺の美味しさが舌まで染み、汁まできれ
いに平らげたとのことでした。
一息ついてから目口が立ち上がり勘定を済ませると、三人は再び駅へと戻
り迎えを待ちました。その後、君代と慶子が向かった先は、駅から3キロ程
離れた小高い丘の上にある、道東屈指の遊里・米町遊郭だったのです。
小料理屋に住み込み酌婦として働くつもりでいた二人が送られた先は、
「くるわ内4丁目」と呼ばれていた地域で、26軒もの妓楼が彩を競う一角に
ある「梅島」という店でした。
店の女将から、君代は「小菊」、慶子は「千春」と名付けられ、今夜はゆ
っくりと休むように。明日から姐さんに付いて、座敷の作法や礼儀を習う旨
を伝えられ、二階の部屋へと通されました。
廓に着いても、なお、自分たちは「酌婦」という仕事をするのだと思い込
んでおり、それどころか、酌婦という仕事が何なのかも知らないという状況
だったのでした。
川嶋康男 著 「消えた娘たち」より