保障なき暮らし
「父ちゃんが死んだ!」
北洋行を薦めた請負業者の男が、床の間の仏壇を開けて線香に火を付け、
香典袋を仏前に献げ帰ったから間もなく、君代の母は、そう絶叫すると発狂
したように泣き崩れました。
小学校に上がったばかりの君代にとっては、父親の死を理解するには、
まだ幼く。母親の豹変した様子の方が、さぞかし恐ろしかったのではない
でしょうか。
泣き狂う母の身体にすがり着き、ただただ一緒に泣いたそうです。
小学1年生の君代を筆頭に、幼子4人を一人で育てる為、母親は浜に出面
取りに出たり、失業対策事業に出して貰える事ができ、
スコップやツルハシを手に稼ぎに出たそうですが、家族5人を支えられる程
の収入には程遠く。
父親の死は労務中の事故なので、大枚の見舞金が支払われるはずなのに
下請会社から母の元へ届いたお金は、僅かに葬儀代程度だったとの事でし
た。
何処に相談に行けばよいのかもわからず、人づきあいが少なかった両親
は、隣近所との付き合いも薄く、香典などもそれなりの額面だった為に、
49日に仏壇に上げた麦飯を最後に、泥を舐めるような極貧生活が一家を襲
かかって来たとのことでした。
浜の仕事に出ていたお蔭で魚だけは手に入り、辛うじて餓死することは、
ありませんでしたが、北国の長い冬が訪れ、母親は漁師相手の焼き鳥屋へと
夜の仕事に切り替えたのでした。
酒の味を覚えた母は、生活の辛さを酒にぶつけ深酒をするようになり、
朝帰りが目立つようになってきました。
子供達に当たり散らし、時には自宅に男を連れ込んで事におよび、朝にな
ると男の姿はなく母親だけが死んだような顔で寝ていることもあったそうで
す。僅かばかりの生活費も、母親の酒代に消えていき、見るに見かねた女将
さんたちが諭しても聞く耳は持たず。逆に酒の力を借りて怒鳴り散らして歩
く始末。
男たちは遠洋や土工の出稼ぎに出ており、女たちが身を寄せ合うように暮
らしていた港町では、女将さんたちが、母親の留守を見計らって、芋やカボ
チャの塩煮や魚の煮付けなどを足げに運び、子供達はなんとか生き延びてい
たそうです。
君代は、呑んだくれの母親と幼い兄弟の面倒で、まともに学校に通うこと
が出来るわけがありません。教科書すら揃っていない状況でしたが、家庭環
境を知っている先生や級友が優しく接してくれて、読み書きだけは、人並み
程度に出来たそうです。
酒に溺れながらも、死に物狂いで働いていた母親が、ぷつりと糸が切れた
ように仕事に行かなくなったのは、君代が13歳の頃でした。辛抱して溜めて
いたお金が、全て酒代に持ち出されてしまったのです。
そうして、君代はやむなく水産加工場へ出面取りの手伝いを始めたのでし
た。半人前以下の稼ぎでしたが、親方が日当を工面してくれ、それで帰りに
食料をを買う事ができ、なんとか餓死せずに暮らしていたとのことでした。