札幌牢
さて、邏卒隊が巡回するようになる以前は、
犯罪がなかったのかと言いますと、
そんな筈はありません。
北海道となってからの行刑の歴史を辿りますと、
二代目の開拓判官が岩村通俊となった明治3年に、
開拓使本庁の西手に庁所属の用度倉庫として
建てられていた施設を改修し、これが牢屋とされたとの
記録があります。
場所は、元浜益通り(北1条)と元創成通り(西1丁目)
が交差する辺りで、当時は森の中にポツンと1軒だけ
建っている様な状況だったそうです。
この札幌牢の以前から、すでに牢として使われていた
などといった話も残されているのですが、恐らくは
仮説留置場のようなものだったのではないでしょうか。
徒刑場、懲治場、監獄所と名称が付きましたが、
多くの人々が「牢屋」と呼んでいたそうです。
この牢屋に留置第1号として入れられたのは
岩吉という人物で、博打をして刑法局に取り押さえられ
何処にも入れておく場所が無かった為、一時この倉庫に
入れられたのが始まりとのことです。
牢屋というよりは、留置場と言った方が適当だったのかも
しれませんが、如何せん穀物倉庫として使っていた
ただの倉庫だったので、岩吉はさっさと留置場を破って
逃げてしまったそうです。
これでは駄目だという事で、大通りと創成川が交差する
辺りの近くに牢屋の一大建築工事が行われ、
後に囚人となった者は、この牢屋に入れられたとのことです。
ただ、この頃に懲役刑を言い渡された囚人は、
現代のように監獄に投獄されるのではなく、
窃盗くらいの軽犯罪だと、自宅から赴き
営繕局の材木を担ぐ仕事を命じられたり、
博打を犯した者は、幕府時代と同じように
五十叩き、百叩きなどの刑罰を与えられ
背中を打たれるといった措置が取られていたそうです。
この打ち役は、山下治兵衛といったそうですが、
打つのが上手だと評判の人物で、大変よい音を響かせていたとか。
この刑は、大通りに向かった表門で、箒を使い
罪人の尻を打つのですが、五十叩きなら25回ずつ
2セットで箒を下ろし、其々最後の1回を身体に
当てるだけなので、実質2回打たれるだけだったそうです。
役人は、両脇から襷掛けに残った跡を見て、許していたと
いうので、なんとも大らかな時代だったようです。
牢屋内の仕事では、藁でツマゴや、草鞋、深靴などを
作り、他の仕事は開拓事業の土木工事や、掃除、
道路の補修など、営繕係の作業と大差ない作業をしていた
様です。
一に開拓、二に開拓、三四が無くて、五に開拓……。 後に、この刑罰は廃止されましたが、 その頃には本庁は勿論の事、 街の大部分に道がつけられていたとの事でした。