鼻欠け地蔵
今日は、zoom会議や資料作りでちょっぴり忙しく。
どの様な資料かと言いますと、
義理のお母さまが、釧路・米町遊郭の遊女だったと
お写真を送って頂いたので、
その方の家歴のファイリングや、
花街を縄張りとしていた博徒たちのリストを作りなど……。
兎にも角にも、毎日堆く積まれた書籍に囲まれ
一度地震など起きようものなら、
書籍の雪崩に巻き込まれそうな有様で。
そうした中、妓楼の楼主の一族が
明治3年には住むようになっていた
函館地蔵町の資料を読んでいると、
この街の名の由来に目が留まったのです。
地蔵町は、現在でいうと函館末広町の辺りなのですが、
その名は古く、1791(寛政3)年には、地蔵町と呼ばれており
人口も1,152人もいたそうです。
名の起こりは、北陸銀行の向かい側に
昔、延命地蔵堂があったそうで
「函館夜話草」に由来が書いてありました。
昔、海辺に石のお地蔵さんがあったのを、
近所の子供が面白半分に引きずり廻し、
鼻が欠けてしまったので、
このお地蔵さん『鼻欠け地蔵』
と、呼ぶようになったそうです。
その後、天然痘が流行し、近所の子供が
亡くなったので、この辺に葬った時、
誰かが『鼻欠け地蔵』を子供の墓の所に移したのが
起こりだという説や、旧家川崎屋の邸内にあった
お地蔵さんを、地所と共に高龍寺に寄付し、
地蔵町となった説。
また、地蔵堂は高龍寺の未僧豊眼が創立したとも
云われているそうです。