見出し画像

民主制とneed/demand

民主主義は互いの快・不快や利害をベースに話し合い、落としどころをみつけようとすると
破綻するのではないかと思った。
あくまで前提にするべきは正・不正であり、善悪であるべきではないか。
それもたとえば、

正しいこと、善いことはなにか?
→善いのだから幸福であるはず、幸福とはなにか?(一旦正しさを脇に置いて)
→(ネオリベラル的な)利益はなにか? 快はなにか?

この道筋を辿るとベースが個人的な環境や感情に寄ってしまう。
だからここで前提に置くべきは、不正ではない、悪ではない、なのではないかと思う。

不正ではない、悪ではない、とはなにか?
→不正がない、つまり、人間として誰もがもっている権利(自然権)を誰からも脅かされない状態とはなにか?
→不当に権利を脅かされない状態、つまり不正や悪のない社会とはなにか?

この道筋を辿れば、個人に寄らず社会として不正のない状態を目指せるのではないか。
そもそも、不正や悪がない社会を前提にしたとき、その社会で損を被る人間は本来いないはず。
誰も自然権を脅かされないのだから、誰の自然権を脅かさなくても、生存可能なのだから。
ただ、社会のなかで不正に利益を得ていたり、悪をして得する行為が横行していれば、
その不正や悪によって得をしている人間の利益は失われるだろうけれど。

出自や個人特性を踏まえたうえで、誰もが望むような利益を得る、というのは難しいかもしれないが、
誰もが不正による損を被らない、というのとは話の素地が違ってくる。
ここに個人的な快・不快や利害は絡まない。
そして言うまでもなく、不正や悪によって損を被る人間がいる社会であってはならない。

ただ、指摘できる点はいくつか思いつく。
たとえば、災害や戦時下でも、不正や悪が一切なければ自然権、ここでは命が脅かされることは本当にないのか。
たとえば、個人的な快・不快や、人より利益を得たいという感情自体が人間的で、それを排除した人間像は成立するのか。
などなど。反論もいくつか思いつくのだけれど、
もうひと議論展開できてしまうのでこの記事はここまで。


CALAMVS GLADIO FORTIOR
The pen is mightier than the sword.

Kamoi



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?