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田辺朔郎の人物相関図


田辺朔郎人物相関図 琵琶湖疎水工事時代

田辺朔郎周辺の人物相関図をまとめてみました。
色々と思ったところを綴ってみます。

(旧幕臣たち)
朔郎の父が幕臣であった事から、周辺に旧幕臣が多いのは当然ですが、明治に入ってからも繋がりが濃い事に今更ながら驚きます。

まず気がつくのが荒井郁之助の重要性。
 田辺太一と安藤太郎は義兄弟、大鳥圭介とは伝習隊時代ルームメイトだった事もある親友で旧幕臣たちのハブとなって機能しています。
 本人は北海道開拓使で測量を習い、お雇い外国人から「その能力にふさわしい役職を得るべきだ」との賛辞を得た質の高い技術者でもあります。

 田辺朔郎に関して、明治14年11月1日付けで大鳥圭介から手紙を送られています。草書が判読しづらく中身がはっきり分かりませんが、京都へ派遣された田辺朔郎への支援を求めたもののようです。
荒井郁之助宛書簡|文書|デジタルアーカイブ|目録・デジタルアーカイブ|琵琶湖疏水記念館 (kyoto.lg.jp)
(どなたか翻刻が得意な方、訳していただけませんでしょうかm(._.)m)

 思い付いたようにあちこち継ぎ足している書きぶりから、大鳥圭介は多動で少しおっちょこちょいな所があったんじゃないかと妄想します。(そのせいか大鳥圭介の属性と固有スキルが渋滞していますね(笑))

 ここには入っていませんが、田辺朔郎の結婚については榎本武揚(函館政府の総裁)が仲人を務めています。
 相関図中の「五稜郭」とは戊辰戦争において新政府に対抗し、函館五稜郭にて函館政府を作り最後まで戦った人たちを表しています。(降伏後は皆投獄され後に釈放されています。)
 最近小栗忠順はじめ「徳川近代」が再評価されていますが、旧幕臣たちの優秀さはこの相関図1枚からも伺い知ることができます。また薩長を中心とした新政府役人には汚職事件を起こした者が多いのに対して、旧幕臣の倫理観の高さは特筆に値すると思います。

(北垣国道の交友関係について)
 北垣国道の中央政府との繋がりを、北垣の日記「塵海」から探ってみると
伊藤博文・松方正義・井上馨・西鄕従道・山田顕義・榎本武揚・板垣退助・品川弥二郎など色々な名前が出てきます。特に伊藤博文と松方正義とは個別に夜半に至るまで話し込んだ事が書かれており親密さが伺われます。

 北垣は高知県知事、徳島県知事兼務を経たあと京都府知事を10年の長期にわたり務め、北海道庁長官を4年、拓殖務次官を1年務めていますが、そのキャリアのほとんどは地方長官です。    
 おそらく北垣自身が中央で仕事をするより実務に直接携わりたかったのだと思いますが、もし仮に中央政界に進出していれば、彼の交友関係からして相当な地位まで上り詰めたのではないでしょうか。

(北海道開拓使)
 佐賀藩主鍋島直正を初代長官とする北海道開拓使は明治2年東京で設立、同4年に北海道に移転し北海道の開発にとりかかります。
 開拓使には米国農務長官ケプロンを始めとする米国人を中心とするお雇い外国人が約80人雇い入れられ、まず測量と地質調査から取りかかりました。(農務長官を呼んでくるって・・・)

 荒井郁之助はお雇い外国人ワッソンらに測量を学び、嶋田道生は北垣国通の手引きで開拓使仮学校(後の札幌農学校)に入学し測量を学びます。
北垣国通は事務官として働く中で、お雇い外国人の俸給の高額さを見て、後に疎水工事は日本人技師のみで実施しようと決意する遠因となっています。(ケプロンの報酬は年1万ドル、当時のレートは1ドル=1円、明治初期と現代の貨幣価値は1円=2万円と言われていますので、換算すると年俸2億円相当となります。)

 当時ロシアが樺太周辺まで南下しており、北海道の開発を進める事は焦眉の急であり、明治政府はその貧しい財政から相当な予算を北海道開拓に割いていました。
 そのため同時期の日本国内と比べても近代化が早く進んでおり、文明開化の震源地の一つであったようです。

(参考ページ)
日本の測量史 近代測量のはじまり (coocan.jp)
上のページは日本の測量史について、詳細に調べられており、いつも参照にさせていただいている上西勝也氏のページで、この時期の北海道の動きが良く分かります。


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