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田辺朔郎の真実(まとめ)


今更ながら田辺朔郎の紹介

 延々と「田辺朔郎 たなべさくろう」に関する記事を書いてきてなんですが、あらためまして田辺朔郎について簡単に紹介します。

 田辺朔郎は、工部大学(後の東京大学工学部)在学中に当時の工部大学校長「大鳥圭介」により、第三代京都府知事「北垣国通 きたがきくにみち」に紹介され、大学を卒業後、琵琶湖から京都に湖水を導く「琵琶湖疏水」の設計を行い、工事に関する最高責任者として4年10か月をかけて見事工事を完成させました。

 建設途上において世界初の水力発電所がアメリカで建設された事が報じられるや、早速現地に赴きこれを視察。アメリカで視察した発電設備に改良を加え世界最大・最先端の水力発電所として蹴上発電所を完成させるなど、当時の国内・国外の工業レコードを塗り替える数々の偉業を達成しました。

 田辺朔郎はこの時わずか28歳。その後も技術者として最前線で活躍を続け昭和19年9月5日終戦を見る前に亡くなりました。

 まさに文明開化から戦中までの日本の土木史を体現するような人物ですが、疎水工事以降 京都市三大事業の実施などその半生を京都にささげたため、業績の割には知名度が低いです。

 また明治という近代の人物に関わらず、田辺朔郎に関する言説は混乱しています。

 これまで色々と調べた結果、現在私が支持している内容をこれまでの記事で述べてきたところですが、一旦ここで簡単にまとめておきたいと思います。

それぞれの詳細については各記事でご確認ください。

田辺朔郎が北垣知事と出会ったのは明治14年か15年か

 田辺朔郎は工部大学校長「大鳥圭介」により北垣国通知事に紹介されました。この出会いを明治15年(田辺朔郎の卒業1年前)としている書き物が多いです。
 これは大鳥圭介が田辺朔郎を北垣知事に紹介したときに「明年卒業の学生」と紹介したとされている事から、卒業の前の年である15年と解釈された事がひとつと、
 後年田辺朔郎が話したとされる内容「内務省工作局の辞令により京都方面に赴いた時にたまたま疏水工事の事を知り独自に研究をおこない論文を作成、たまたま疎水工事にあたる適当な人物の推薦依頼を受けた大鳥圭介から北垣知事に紹介された」という証言によるものと思いますが、
 私は北垣知事との出会いは明治14年であったと考えます。以下論拠を述べます。

「田辺朔郎博士60年史」の記載

 最初期の文献である大正2年に田辺朔郎の還暦祝いで弟子たちから贈られた60年史の記載については、琵琶湖疏水時代の夜間学校の教え子 西川 正治郎が、不確かなところは博士に確認しながら正確を期して執筆したとされています。
 ここでは、大鳥圭介から紹介された田辺朔郎が、知事からの知遇を得て感激し猛然として大事業にとりかかり、博士が初めて京都の地を踏んだのは明治14年とされています。(※意訳:原文は60年史P.56でご確認ください)

北垣知事の日記「塵海」の記載

北垣知事の日記「塵海」は書かれている時期と書かれていない(もしくは残っていない)時期の差が激しく、特に疎水工事初期の記録はあまり残っていません。

田辺朔郎が日記に初めて登場するのは明治15年4月20日
疏水事業の認可を得るため、政府首脳陣に説明をおこなうため上京していた北垣の下に田辺が訪ねてきます。

(同日記の記載)
午後3時 田辺朔郎来る工部大学卒業生なり、琵琶湖疏水の事を談す。同人談中、伊仏間「アルプス山脈」を貫く有名なトンネルあり、甲を「セントコサルド」トンネルと云い、乙を「マンシニ」トンネルと云う。
 甲は長9マイルにして、風間歩の深さ60間なり。4年にして漸く通す荒堀りなり。乙は7マイルにして風間歩を開かず、8年間にして正業。始め空気の不通を憂いたれとも、成業の後ち敢えて憂なし。
 右開削中は、鉄管にて空気の流通を致せり。空気の送りは、水車にて本をなせりと言う。(※部分的に現代文化)

(考察)
この時田辺朔郎は工部大学の最終年次であり、まだ卒業していない。
この誤解は、前年に大鳥圭介が「来年卒業」と紹介した事の証左ではないだろうか。

そして重要なのが、会話の主題が「風間歩」による通気と工事期間の事であること。(「風間歩」は恐らく竪坑(シャフト)の事と思われる。)この日記の少し前、明治15年3月に南一郎平の琵琶湖疏水意見書が提出されており、その中でシャフト工法が提案されている。シャフトの役目には工期の短縮・通気・採光など複数あるが、会話の内容はシャフトの要不要を論じたもののようである。(つまり田辺朔郎は、この時点で南一郎平の意見書を読んでおり検討した結果を北垣に報告したものと思われる、そうであれば南の意見書は提出されると同時に田辺朔郎に共有されたことになる。)
 田辺朔郎はこの時点で京都府の疎水事業部門における検討内容にかなり深く関わっていたと推測します。
 なお、会話の内容からすると田辺朔郎はシャフトは必ずしも必要無いという意見を述べたようだ。(このことは昭和14年の座談会での「あんな事をしても金を捨てるばかりで仕事はできないだろうと そう思ったんです」という発言と符合する)

「琵琶湖疏水及水力使用事業」の記載

昭和14年疏水50周年に発行された京都市電気局発行の書籍の中で、博士自ら次の如く語っておられるとして以下のように記載されている。
 当事者の証言であり、本来であれば一次資料として尊重すべきなのでしょうが、総合的に状況を整理すると、事実と若干異なる証言をした可能性があると私は考えます。

(記載の内容)
・京都に行ってみるとたまたま疎水事業が計画されていたので、独自の立場からその計画を行ってみることとし、大津京都間の疏水線路を踏査し、又種々の調査を行った上諸材料を携えて帰京。
・京都で削岩機で右手の中指を怪我したため、左手で論文を仕上げ、このことにより教授陣・校長に認められ、たまたま疏水工事のため適当な人物の推薦依頼があって自分が推薦された。

※別記事で述べた工部大学の教育内容と、北垣の日記に書かれた内容から田辺朔郎は京都府の疎水事業部門と密接に連絡を取り合っていたと推測しています。
 また「独自の立場から」と「京都府と情報交換をしない」は必ずしもイコールではないと考えます。工部大学の教育内容的にそれはありえないし、北垣の日記における会話の内容は南一郎平の意見書の内容を論じたものと見受けられ京都府と情報交換しつつ研究を進めたものと考えます。当然「京都で集めた諸材料」には嶋田道生の測量成果も含まれていたと推測します。

工部大学の教育内容

別記事に書いたように、工部大学の5,6年生は工部省所管の事業に出入りし実地で事業に従事していました。
 同級生が各地の事業に参画する中、田辺朔郎だけが「一人で調査を行い、独自に研究をした。」とは私にはとても思えません。この直観は私が通説を否定する一番大きな根拠であります。

消された南一郎平

では事実と違う証言をした理由は何か。
南一郎平という補助線を引いてみます。

琵琶湖疏水の工事計画初期、北垣知事は南一郎平の工事責任者就任を希求しており、南のほうでも明治15年2月には琵琶湖疏水線の調査を行い、同3月に水利意見書・目論見表を提出しています。
 この意見書に基づき嶋田道生は詳細な「目論見実測図」を完成、以後の疎水計画はこの測量をもとに進められています。
 明治17年10月7日の北垣の日記には南の疎水工事担当について、内務省土木局長の了解を得たとの記載があり、この時までは順調であったようです。
 ところが、明治18年6月3日の起工式になっても南は現れず、同8月3日、工事担当者・議員が一同に会した席で、「南一郎平はいつ来てくれるのか」との質問があり、北垣はここで初めて「南一郎平の就任が無くなった事、田辺朔郎を工事担当とする事」を告げます。(琵琶湖疏水及水利利用事業P.183)
 疏水工事の成功後、北垣は南一郎平の名を口にする事はなく、田辺朔郎を持ち上げる発言に終始します。長女を娶り義理の息子となった田辺の株を上げるためなのか、工事直前に手のひらを返した南一郎平への恨みか(南自身の意思ではないとしても)、単に過ぎたことを言っても詮のないことと思ったのか、北垣の態度にはかなり明確に南一郎平の疎水事業への関わりを抹消しようとする意図が感じられます。

田辺朔郎は義父のその方針に従い、南一郎平の計画とは別に疎水計画を検討していたのだと証言した可能性があるのではないか。

かなりうがった物の見方になりますが、自分的にはその方が色々と整合が取れる事が多く、田辺朔郎は明治14年に大鳥圭介から北垣知事に紹介され、そこから疏水計画に携わり京都府の疎水部門に出入りして琵琶湖疏水の計画を練ったという説を主張しています。



琵琶湖疏水事業の工事費はいくらか?


人により琵琶湖疏水事業の工事費を2兆円の巨大プロジェクトと主張される方がいます。
 当時の国家予算に対する疏水事業の割合を、現在にそのまま持ってくると概ね2兆円という計算もできますが、当時と今の日本の国家規模が違いすぎるため、これはあまりに盛りすぎで、別記事の検討の結果1500億円程度とするのが妥当と考えています。

田辺朔郎はいつ指を怪我したのか?

田辺朔郎は明治14年10月に京都において疏水線路の調査を行い、ここで右手中指を負傷したとされており、京都府へ就職後の明治16年5月になってようやく手術し40日余の加療で完治しています。
 大体1年半も手術せず放置した事は私には理解できないのですが、博士自身が複数証言しており、これはその通りであったのだろうと今は考えています。
 博士が指を怪我したのは京都で疏水調査をしていた時期の末期14年11月頃と考えます。


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