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田辺朔郎は車石を見たか?
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牛が京都向きに進んでいるので この絵は午前中です。
「車石 くるまいし」というのは、京都周辺の街道に牛が引く荷車「牛車 うしぐるま」の通行のために設置された2列の敷石で、度重なる通行により表面に深い溝が刻まれていました。
画像は日文研データベースの画像で、1864年発行の「再選花洛名所図会」白川橋付近の版画です。牛が大きな荷車を曳いて二列の石の間を進んでいる様子が描かれています。
白川橋図絵画像 (nichibun.ac.jp)
向かって左方向が大津、右方向が三条で牛車は橋を通らず川の中を通っています。
荷台には9俵の米俵が詰まれていたそうで、1俵は約60kgで540kg、荷台も入れると700㎏は超えるでしょう。
これが街道を往来する訳ですから、車石が整備される前は雨が降ると街道はぬかるみ通行に難渋し、道は轍掘れででこぼこになっていました。
峠を越えるには荷物を軽くする必要があり、峠のふもとには人足が待機しており、荷台から米俵を降ろして担いで上がったそうです。
牛が苦しむのを見かねた「木食養阿 もくじきようあ」というお坊さんが寄進を集めて1734年~1738年に日岡峠を切り下げて勾配を緩くし、街道わきに水場を整備しました。
この時に使われた工法は「大石砂留法」というもので、車石は使用されていませんでした。
大津から京都三条まで本格的に車石が整備されたのは1804年~翌5年にかけてで、一部は既に敷かれていた車石を使用したとの記録があり、1700年代中ごろに考案されたものと思われます。
(車石が整備された背景については、当時の国際情勢と幕閣の政争を含めて面白い考察が以下のページでされています。)
関西の公共事業・土木遺産探訪 (starfree.jp)
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しかしながら牛が不自然に1列に並んでいますので、車石の溝を進んでいるものと推測します。広重さんがめんどくさいもしくは映えないので省略した疑いが・・・
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車石の歴史は短く、1885年~1887年(明治8~10)には第二代京都府知事 槇村正直により日岡峠の車石は撤去され、マカダム舗装が施されていますので百年程度しか使われなかった事になります。
日岡峠以東の部分について、いつ撤去されたか示す記録は発見できていませんが、同時期にマカダム舗装が施されたのではないかと思われます。
田辺朔郎が京都にやってきた明治14年は実に微妙な時期で、続けて滋賀県側も整備されていれば見ていないけれど、槇村知事は何でも西洋化という廃仏毀釈主義者だったので、滋賀県側がそこにすぐ追随しただろうか?という疑問があり、しばらくはそのままだった気もします。
自分の小説では、明治14年にここに来た田辺朔郎が車石を見るシーンを入れていますが、車石を紹介したいがために無理やり入れた感がありますね(笑)【小説】「朔に穿つ」田辺朔郎の琵琶湖疏水記|鴨東|note
田辺朔郎は後年の石斉随筆の中で車石について以下のように述べています。
「車の轍の通るところへ板石を敷いてやった。これが日本におけるストーントラムウェー(石軌道)の最初のもので、明治の初めまではありましたが、三条街道がマカダム道に改修された時に取除けられて溝石になり、後に紛失してしまったのを、少々見つけ出し今の京津国道の切り取り場所の土留石垣の或るところに、記念のために積み込んであります。」(S11.10第5回全国都市問題会議で現地視察した際に参加者に語った言葉)
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それがこれです。
蹴上から登って行って峠を越えたあたりにあります。
昭和6年に京津国道改良工事が実施された当時はこんな感じでした。
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同改良工事では、逢坂山で旧態そのままの車石が発掘されています。
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比留田家文書「往還道出来方帳」の工事仕様によると、中央に牛道を3尺(約90㎝)、両側に2尺5寸(約75㎝)深さ1尺(約30㎝)の溝を掘り、縦約1尺(約30㎝)、長さ約2尺(約60㎝)の車石を横据えする。
とされており、写真はそのとおりの姿です。
この状態だと、牛は歩きにくい石の上を避けて自然に中央の牛道を歩く事になりますので、荷車の車輪の位置が最大公約数的に定まり、徐々に溝が刻まれて現代にのこる深い溝になるわけですね。
車石については、またの機会にじっくり語ってみたいと思いますが、その存在は田辺朔郎も知っていました。
田辺朔郎の恩師ダイア―は、工業史を作る事や学会を作る事を推奨しており、朔郎はそのとおりに行動しています。
田辺朔郎は編集委員長として「明治前日本土木史」「明治工業史」をまとめており、その中で車石についても記載されています。
明治工業史 提要・索引 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
明治以前日本土木史 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
明治以前日本土木史P.966~(※明治以前日本土木史の閲覧には登録が必要です。)
日本の道路に関して、過去から路面を固める整備が行われていなかった事を縷々述べた後、車石での舗装について「準テルフォード式の堂々たる構造を有し、今日の技術をもってすればむしろ過大と思われる。」と称揚しています。
先ほどから、テルフォード、マカダムなど聞きなれない単語が出ていますので若干説明しますと、「テルフォード式」も「マカダム式」も舗装道路の工法で、どちらもイギリス人技術者の名前に由来しています。
テルフォードは、田辺朔郎が受賞した「テルフォード賞」のテルフォードその人であり、大きな栗石と砕石にて路盤を作る事を提唱していました。
マカダムは大石を使わなくても砕石のみで路盤を作れる事を実証し、舗装道路を普及する事に大きく貢献しました。
砕石(砕いた石)という事が重要で、粗面(ざらざらした面)を有する砕石を敷き均し、転圧することで砕石同士が噛み合い、均等に圧力を分散する丈夫な路盤を形成する事ができます。
今日ではその上にアスファルトが載せられていますが、舗装道路の本質はこの砕石の転圧による路盤に有ります。路盤がなく石畳を敷いたとて、すぐにガタガタになり使い物にならなくなるのです。
アスファルトやコンクリートの表層が普及する以前の道路はマカダム式の「砕石舗装」であり、この舗装は単に「マカダム」と呼ばれ、戦前は有名なものでした。
今日ではマカダム舗装はほぼ無くなり、転圧用の3輪ロードローラーに「マカダムローラー」として名を残しています。
テルフォードがイギリス工学会の初代会長で優秀な技術者であるのに対し、マカダムは60歳まで銀行員をしていて、その後家業を継いで舗装の普及を進めた異色の存在です。
テルフォード博士が完璧で壊れない道路を作ろうとした一方、マカダムは実践で安価な舗装を作り、修繕しながら使っていけば良いという考えで舗装道の普及を進め、結果的により大きく世の中の役にたったと評価されます。これは土木が実践工学と呼ばれる事の実例と言えるでしょう。
田辺朔郎と車石のかかわりはそんなところです。実際に使われているのを見た可能性は30%ぐらいかなと考えています。
(余談)
明治工業史作成にあたり、イギリスにて恩師ダイア―に相談したところ、前将軍徳川慶喜に話を聞く事を勧められたそうです。帰国後田辺朔郎は慶喜公に面会し、明治工業史の題字を揮毫してもらっています。
明治6年に来日したお雇い外国人の口から前将軍の名前が出るとは、ちょっと感動しました。
ダイア―教頭は歴史を学ぶ事・学校の図書を充実させる事について重視しており、自ら実践し帰国後には「大日本-東洋のイギリス―」という書物を著し、そこでは中世からの日本の歴史、日本人の心情、現在の日本の国情など詳細に記載して西洋に紹介しています。
※大日本というのはGreat Britainに対応して東洋のイギリスという意味で大を付けたもので、後の自らふんぞりかえって言う大日本帝国というような意味合いとはちょっと違います。
(余談2)
車石擁壁の向いにある車石広場の復元は色々とおかしいので、あれが車石の姿だと思わないでください。