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ヘンリー・ダイア―と工部大学校と田辺朔郎


ヘンリー・ダイア―教頭(著作権フリーの画像がなかったのでつたないイラストで(笑))

ヘンリー・ダイア―と工部大学校と田辺朔郎

〈前回からつづく〉

 岩倉遣欧使節団派遣前の明治3年、伊藤博文と山尾庸三らは工部省を設立。日本の近代化のため殖産興業を推し進める体制を整備していく中で、鉄道技師長エドモンド・モレルの提言を受けて日本人技術者養成のための学校の併設に向けて動き出していた。

 教師団の選定を依頼していたエドモンド・モレルが明治4年11月に急逝したため、伊藤博文は使節団の行程中イギリスにおいて旧知のジャーディン・マセソン商会のロンドン支配人ヒュー・マセソンに相談。
 マセソンはイギリス工業会の大家ゴードン氏に協議し、グラスゴー大学のランキン教授に人選を依頼。同大学に在学中のヘンリー・ダイア―(当時24歳)を筆頭とする教師団が派遣される事となった。
 元々ダイア―は大学において工学教育のあり方を研究しており、ヨーロッパ各国の工学教育の状況を視察し、構想を練っていた所であった。
 派遣が決まるやいなやダイア―は船上の人となり、岩倉使節団の帰国前には日本に到着した。航海中工学学校の構想について取りまとめ、日本に到着後すぐに提出し、その提案はいかなる種類の変更もなく受け入れられました。

 ダイアーの性格は頗る厳格謹直、教室を巡視するときでも脇目もふらず、長身をまっすぐに伸ばして機械人形のように歩んだとの事で、普段の行動にも謹厳さが表れていたようです。
 イギリスを発つ際、彼には婚約者がいたのですが、あまりに急に一人で出発してしまったので婚約者の両親は慌てて娘を次の船に乗せて後を追わせたそうです。一説には航海中に学校構想に集中したかったため一人で出発したとも言われています。

 ヘンリー・ダイアーの見るところ、西洋における工学教育は、イギリスでは徒弟教育で実践を重視し理論を軽んじており、ドイツ・フランスでは逆に学理を重視し実践を軽んじる傾向があった。
 彼は前者について「有能な職工であっても、生命や金銭の危険をはらむ工業の実地を委ねることのできない人物を作る」と述べ、後者については「工業事業を監督・指導するより、むしろ学校教師にふさわしい人物をつくる」と述べ、二つの方式の賢明な結合が必要と考えた。

 彼の工学教育のカリキュラムは全体を一般教育2年・専門教育2年・実地事業2年とし卒業後すぐに各地の事業の施行者となれる人材を育てるように配置された。

(各学年の教科) ※一部現代風に言い換えています
1年(予科1)英語・数学・歴史・理学・図学・書房
2年(予科2)英語・数学・歴史・理学・図学・科学・書房

3年(専門科1)応用力学・測量・蒸気機関機械学・土木図学・鉱山学・測量図学及実習・測量実習・地質学・土木学・数学・理学・書房
4年(専門科2)鉄道路線計画の実地測量(前期)・土木学・蒸気機関機械学・土木測量図学・機械図学・書房

5年(実地科1)専ら実地に就いて事業を行う
6年(実地科2)専ら実地に就いて事業を行う 卒業論文提出

1、2年において一般教養を学ぶ事について、ダイアーは学生に以下のように述べています。「諸君が文学や哲学、芸術その他専門職にまったく役にたたないと思われる諸学科にまったくの門外漢であったならば、多くの専門家につきまとう偏狭さ、偏見、激情から逃れることは不可能になるだろう。」

3、4年については、座学を半年、実地を半年のサンドイッチ形式
5、6年の実地については、工部大学は工部省の機関であり、学生は工部省所管の各地の事業に自由に出入りできたそうです。

 この教育内容を見ると、田辺朔郎が琵琶湖疏水の計画を立てるに際して、単独で現地調査し、単独で計画を練ったとはとても思えない。
 他の学友が工部省所管の事業に出入りし実地で事業に就くのと同じく、京都府の疏水事業部門に出入りし計画を練ったはずだと私は考えます。

 琵琶湖疏水記念館には南一郎平の意見書を田辺朔郎が書き写した物が展示されていますが、これを写したのがいつだったのか考えると、京都府に就職してから書き写してもあまり意味がなく、論文作成段階、内務省に南の意見書が提出された時に写しを取るのがもっとも有効活用でき、この時(明治15年3月)写されたのだと考えます。

 京都府で嶋田道生が実施した測量結果や、南の意見書などを参照し、独自の考察を加えて卒業論文が提出されたものと推測します。
 田辺朔郎の伝記の中で必ず描かれる、右手を負傷し左手一本で書き上げた論文「琵琶湖疏水工事の計画」がどこにも残っていないのは、それが京都府の琵琶湖疏水計画そのものだったからじゃないでしょうか?

 以上は私の推論です。もし、それは違う、という根拠資料をご存じの方がおられましたらご教示ください。m(_ _)m

 田辺朔郎は恩師ダイア―を生涯敬愛しており、後年日露戦争直前、シベリア鉄道の調査に出かけた際はグラスゴーに恩師を訪ねて印象的な会話を残しています。
 朔郎は「体は幸いに健康です、公務の事で無理を致しますことがありますが、過度な愉快は取りません」と恩師に伝えた。
「過度なる愉快を取るなかれ」はダイアーの教えであり、田辺朔郎はこの格言を最も価値のあるものとして己の人生を律する規範としていたと述べている。
 含蓄のある言葉で、真意を明らかにするのは難しいところがありますが、宗教的な禁欲精神か、後楽の語源「天下の楽しみに後れて楽しむ」といった為政者の心構えに近いものか、いずれにせよ純粋に技術者として社会に貢献するための心構えを説いたものだと思います。

 田辺朔郎はダイアーを相当の年上だと思っており、老人の姿を想像していたが若く見える事に驚いたところ、ダイアーは「若く見えるわけではなく、実際に若いのです。50を少し出たばかりです。」と答えた。朔郎はこの時初めてダイアーの年齢を知り、日本に完全な工学教育機関を作り上げたのがそんな若者であった事に感嘆したところ「君が琵琶湖疏水の大事業を落成したのも30才になる前じゃないか。」と一本取られた様子が描かれています。なんとなく若くして物事を成し遂げた者同士の共感が伝わってきます。

(余談)

 徒弟制度において現場を偏重した教育を行うことは「有能な職工であっても、生命や金銭の危険をはらむ工業の実地を委ねることのできない人物を作る」という言葉を聞いて、私は南一郎平を思い浮かべてしまいました。
 南一郎平は、日本の3大疎水である「安積疏水」「那須疏水」「琵琶湖疏水」全てにかかわり、北垣知事が琵琶湖疏水の工事主任への就任を熱望していた人物です。
 大分県で親子三代にわたり取り組んでいた広瀬井出を、借金を繰り返し破産・投獄の憂き目に遭いながら完成、その後の3大疏水の実績を含めて、たぐいまれな実行力を有する人物であった事は間違いないですが、知識は現場で身につけたものであり、後に「現業社」を起業した際は古い工法に固執し損害を出したとか、会社での様子は「技術者ではなかった」などと語られたりしており、現場のたたき上げの典型的人物と思います。
 もしも南が琵琶湖疏水の工事主任になっていたとしたら、もっと早く施工完了していたと思いますが、水力発電所は出来てなかったでしょうから、結果論ですが田辺朔郎で良かったと思います。

(余談2)
 専門教育における一般教養の必要性を語ったダイアーの言葉「諸君が文学や哲学、芸術その他専門職にまったく役にたたないと思われる諸学科にまったくの門外漢であったならば、多くの専門家につきまとう偏狭さ、偏見、激情から逃れることは不可能になるだろう。」からは嶋田道生を想起してしまいました。

 北垣の日記からは嶋田道生の言行をめぐり一悶着があった事がうかがえます。詳細は不明なのですが、時期とその直後第1トンネル東口の工事責任者に就任している事を考えると、測量が完了し、自分が重用されなくなった事に関する不満が爆発したのだと想定できます。

 疏水記念館に残された目論見実測図からは嶋田道生の確かな仕事ぶりが伝わってきますが、自分の腕に自信がある分、他の者は自分より劣って見える弊害に陥っていたのではないでしょうか。

 嶋田道生のせいという訳ではありませんが、皮肉にもその後、東口では工員65名が閉じ込められる崩落事故が発生しています。心中複雑なものがあったと思われます。

ダイアーの教育論は今日にも通じる普遍性を持っていると感じます。

(余談3)
 ランキン教授の著作「Manual of Civil Engineering」は翻訳され、明治12年に「蘭均氏土木学」として文部省より発刊されています。
 上下巻1700ページに及ぶ大著で、土木学会付属図書館の「戦前土木名著100書」の中では最初の総合的な土木テキストであり、明治の工学界で知らぬ者は無い大家であったと見受けられます。
土木学会付属土木図書館 戦前土木名著100書 (jsce.or.jp)
 ちなみに田辺朔郎の著作は「袖珍・公式工師必携」「琵琶湖疏水工事図譜」「水力」「とんねる」の4冊が選出されています。

(参考にしたページ)他にもいろいろあります。

明治の文明開化を開いた工部大学校 (coocan.jp)

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