京津は日本物流史の中心地
湖水の水運からの京への道
琵琶湖の水運は、東海道・中山道・北陸道の物資が集まり、長らく日本の物流において重要な位置を占めていました。
大津港から京都に至る街道は、近代に至るまで極めて重要であり、様々な整備がなされています。
上の年表はこのルートの整備状況をまとめてみたものですが、車石や琵琶湖疏水など他では見る事のできないユニークな施設もあり 興味が尽きないところです。
概要
敦賀と大津と大坂
古来、北陸~北海道の日本海沿岸の物資は敦賀で水揚げされ、峠を越えて琵琶湖北端の塩津・海津などから丸子船に乗せて、大津港で水揚げされ、陸路逢坂山と日ノ岡峠を越えて京都に運ばれていました。
大津には米会所が置かれ、米の値付けを行っていました。
1672年に西廻り航路が開発されると状況は一変します。敦賀に水揚げされる米は年間50万俵から徐々に低下、幕末には3万俵程度になっています。
大津もその影響を受けるものの、近江米を京都に届けるための集積地としての地位を幕末まで保ち続けます。
しかしながら西廻り航路の発達とともに大津の地位は低下、諸物は大阪で値が付けられるようになり、主導権は完全に大阪に移ります。
車石と鉄道と疏水
そんな幕末1805年に大津から京都三条まで車石が整備されます。一説には外国船の日本沿岸への出没により 西廻り航路が脅かされるため、敦賀ー琵琶湖ー大津ー京都の物流コストを下げる意図があったともいわれています。
約80年後、時代は明治に移り、鉄道の整備、琵琶湖疏水による水運の整備が行われ、道路・鉄道・運河と3種類の物通がそろい踏みする時代を迎えます。こんなに物流史がてんこ盛りになった地域は他に無く、
自分の興味は車石の整備あたりからの物流になるのですが、これからボチボチを記事を上げていきたいと思います。
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