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【小説】田辺朔郎 ④紆余曲折


明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・



農商務省協議

 朔郎が工部大学にて疏水計画の研究に没頭している頃、疏水実現をめぐっては様々な動きがあった。以下主に政府中央との協議概略を記す。

明治14年
 10月 嶋田道生「疏水略図完成」
 11月 北垣知事 農商務省に協議
明治15年
  2月 南一郎平 疏水線路を調査
  3月 南一郎平「疏水意見書」「水利目論見書」を提出
  4月 嶋田道生 水利目論見書に基づく測量開始
  4月 北垣知事 東上
  9月 福島県 安積疏水開通
 12月 北垣知事 東上
明治16年
  2月 嶋田道生 1/2000「目論見実測図」完成
  3月 北垣知事 東上 農商務省に協議
  4月         農商務省版「疏水設計書」完成
 
 ここまで、北垣は農商務省と協議し計画策定にまで至っている。
 朔郎が工部大学を卒業し、京都府採用となったのはちょうどこの頃である。(とはいえ右手の手術のため40日ほど入院しており、実際に勤務を始めたのは7月からであった。)
 すでに北垣は嶋田道生より田辺朔郎の人物評を聞いており、入庁後すぐ重用し、これ以降の現地調査・議会での説明・中央政府との交渉等 常に帯同し事にあたっている。

 明治16年11月 市議会の議決を取り付け、北垣知事は田辺朔郎・嶋田道生らを伴い東上、内務省・大蔵省・農商務省に「琵琶湖疏水起工伺」を提出した。

 これまで農商務省窓口として協議を進めていたが、このころ行政機構の組織改正があり内務省に「疏水課」が設けられ、今後はそちらの事業とするよう横槍が入り窓口が変更された。(なおこの頃から工部省の業務は徐々に他省庁に移され、最終的に明治18年に廃止となっている。)

 内務省は明治17年2月疏水線路を視察させるべく、お雇い外国人ヨハネス・デ・レーケを派遣した。

ヨハネス・デ・レーケ

 オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケは日本の河川改修や砂防工事の草創期に功績があり「治水の恩人」「近代砂防の祖」と称される人物である。

 関係した事業は、淀川の河川改修・三国港改修・木曽三川分流・田上山砂防など多岐に渡り、ファン・ドールンやエッセルの後任として内務省のアドバイザーを務めている。

 そのデ・レーケである。

 デ・レーケの意見書は、長等山のトンネル掘削にかかる費用が多額となる事をスイス サン・ゴッタルド トンネルの例を挙げて論じ、工事費と得られる経済上の利益が釣り合わないと述べ工事に反対するものだった。
 ただし「目論見実測図」については、等高線をもって高低を表示する方法は見事であり測量者は大いに誇って良いと賞賛している。

 当時のお雇い外国人の権威は相当なもので、日本人技術者も徐々に育成されつつあるとはいえ(朔郎は工部大学5期生)大学を卒業したばかりの学生とは、その発言の重みに天地の差があり、反対者の勢いは大きくなった。

 これを説得するに北垣は、衰勢にある京都を救う策は疏水工事の実現の他に無い事を訴え、朔郎は工事の実現可能である事を訴えた。
「誠意は岩をも通す」幸い京都市民にはその必要性は理解され、それを背景に北垣と朔郎は反対者の説得を進めて行った。

琵琶湖疏水記念館所蔵 目論見実測図の一部を許可を得て撮影(南禅寺~蹴上付近)

甲論乙駁

当時の政府要人の計画に関する賛否は以下のとおり。
賛成:伊藤博文・松方正義・井上馨・西郷従道
反対:山県有朋・品川弥二郎

 これに農商務省と内務省の管轄争い、薩摩と長州の派閥争いがからむという複雑な状況を呈していた。

 事業により直接影響を受ける隣県との関係は更に複雑である。
 滋賀県においては、直接大阪・神戸の経済圏と結びつき海外と交易を行いたい意向があり、京都を介さず直接大阪に向かう水路の計画を立てていた。大阪経済界の重鎮五代友厚などもこれに同調する動きがあり、上流の滋賀は水の枯渇を主張し、下流の大阪は増水による水害を主張しているが、詰まるところ両府県には京都を飛ばして直接結びつこうとの意図があったのである。

 江戸期以降日本の物流は主に舟運が担っており、現代とはその重要性が異なる。
 暴論をはばからず言えば、疏水が完成すれば滋賀の物流は京都に首根っこを捕まれた形となり、滋賀県経済は京都府に隷属する結果を招くと言える。

 時の滋賀県知事 籠手田安定は剣豪としても知られ、警視庁に道場破りをかけるなど気骨あふれすぎる人物で、これを説き伏せるのは特に困難な事業であったが、明治十七年に突如元老院議員に昇格となり滋賀県を離れる事となった。

 この間の事情は了知できないが、政治的な力が働いた事は間違いない。
 思うに大久保利通亡き後、政府の実権を握った伊藤博文の政治力によるものであろう。

 北垣との間でどのような会話が交わされたかは知るよしも無いが、当時疏水工事を外国資本にて実施したいとの企画もあったため、国内産業の育成に熱心な伊藤であれば外国資本の参入は避けたいと考えるはずであり、事業実施者として京都と滋賀を比較した時、産業基立金を有する京都と、資金を持たない滋賀のどちらが適当かは考えるまでもなく、政治的判断により支障を取り除いたという事ではなかろうか。

 幕末の政争をくぐってきた北垣にすれば、正論は若者に任せ、あらゆる手段を使って計画の実現を図るのが自分の仕事であるといった所だろう。

 苦闘の末、反対論を封じ、隣府県の承諾を得て、再度起工承諾書の上申に至った。その概要は以下のとおりである。

明治十七年五月五日付 京都府知事 北垣国道 より 
内務卿山県有朋:大蔵卿松方正義:農商務卿西鄕従道 あて
 

起工伺の要旨
一、湖水を京都に疎通する工事を行い、京都市の用に供する
一、官有地の無償借地
一、民有地の買収は、公用土地買上規則に準じて行う
一、疏水用地の国税免除
一、工事予算840億のうち、半分の420億を京都市負担(産業基立金が充てられる)、残りの半分の210億は府の特別会計より支出、210億は国庫の補助で行うこと
一、希有の大工事であるため、府庁内に特別の部署を設け、実地の経験に富み工事に熟達した者を選任し担当させ、主務官庁の監督のもと万事府庁にて実施すること
                  (※括弧内筆者補足)

 上の担当者像は朔郎とかけ離れている。実のところ北垣は南一郎平を工事主任にすべく協議を続けていた。
 南の方でも琵琶湖水利意見書において、トンネル工事の成功は工事主任にかかっており、通常の者では実現困難であると述べて、自分が工事を担当する気でいた様子が見て取れる。

 北垣の日記によると明治17年10月7日には一旦 内務省土木局長の内諾を得ているのだが、その後の南は内務省土木局第一部長に就任しており、琵琶湖疏水に姿を現す事はなかった。

 起工承諾の協議が大詰めにかかった段階にもかかわらず工事主任が決まらない事態を受け、北垣は田辺朔郎を工事主任とする構想に舵を切った。

工事費について

 京都府が疏水工事に充てる原資は、明治3年政府より交付された産業基立金140億が元になっている。
 資金の運用として、たまたま西南戦争で安値となっていた公債を購入したところ高騰し、売却益が出たため この時点でその総額は556億に増額していた。

 当初 農商務省と合意した計画の工事費は840億であり、その過半を産業基立金にてまかなう計画であったが、明治17年6月27日内務省より通知があり、トンネル壁面を堅固なレンガ巻きとし、溢水による災害防止のための側溝、道路横断箇所への橋梁設置などを命じる内務省案(甲案)と内務省独自案(乙案)が示され、工費を算出のうえ市議会の承認を得るよう指示があった。
内務省(甲案)に基づき積算の結果その工事費は1750億円と当初予算の倍額に達した。
 当初計画であれば、産業基立金と補助金にてほぼ全額をまかなう事が可能であったが、増額分については市民の負担となり、増税と多額の起債で借金する他ない。議会の承認は困難と予想された。

「ええで、北垣はん、やりましょ!」
「わてら、このままではどの道おまんまの食い上げや、京都を復活させるのは疏水しか無いて北垣はん言わはったやろ、わてら皆んな同じ気持ちでっせ!」

 難航するかと思われた議会は、意外やすんなり通過した。

 明治18年3月5日 北垣の知事就任より4年、東奔西走、遂に政府から「起工承諾」を取り付けた。

起工式

 明治18年6月2日 大津三尾神社 
 梅雨晴れの蒼天に、祝砲代わりのダイナマイトの轟音が響き渡った。

 北垣知事以下官吏と来賓多数参列し、宮司の祝詞奉納に続き、参列者が順次礼拝して式を終え、祝いの宴をおこなった。

 朔郎は京都府に着任してからこの2年、議会に疏水の利便を訴え、政府に陳情し、反対意見に対し説得を続けた日々を思い返し、ようやくこの日を迎えた感慨と、これから自分が行う空前の大工事を思い、歓喜と勇躍に震える思いだった。

「いよいよ今日から始まる。」

 時に田辺朔郎23歳
 北垣が工事責任者と目していた南一郎平は今だ現れない。
 総工費1750億の大工事の命運は、今やこの若者の双肩にかかっている。

工事初回打ち合わせ

 前例の無い工事のため、民間の業者に見積もりを出来る者がおらず、直営での施工とする他なく、工事の実施については指名契約で東京大倉組と大阪藤田組にて施工させる事とした。

 明治18年6月6日 北垣知事以下疏水工事スタッフ、受注者側技術者府庁に会し、第一回の工事打ち合わせが行われた。
 嶋田道生作成の1/2000目論見実測図を前に朔郎は工事説明を行った。

「本工事は本邦始まって以来の大規模工事であります。現在の日本の工業力はまだ小さく、市中から部材を調達しては部材が高騰し、安定的に数量を確保することができません。すべからく自前で調達する必要があります。」

「まず、トンネル掘削時の支保工(崩れないように支える柱)に使う生松は、これを官有林から切り出し加工します。石材についても官地より切り出します。」

「トンネル全体をレンガにより巻き立てる計画であり、これに1500万個のレンガを使用します。」

 1500万個! 当時最大の生産量を誇る堺のレンガ工場でも年間生産量は200~300万個である。受注者一同ざわついた。

「当然これについても市中からの調達は不可能なので、山科に年間生産量1000万個のレンガ工場を作り自給します。」

 途方も無い計画である。

「工事については工期を6年とし、全工区を同時に完成させるため、時間のかかる箇所から実施します。」「長等山のトンネル掘削が最も難工事でありますので、まずこれから取りかかります。」

「工期短縮のため施工にはシャフト工法を採用します。」

「田辺主任、シャフト工法とは何ですか?」
「通常トンネルは入口と出口から掘削して中央で結合するものですが、シャフト工法は、中間点に竪穴を堀り、トンネル掘削ラインまで到達後、両側に向かって掘削し、合計四箇所から施工することで工期を短縮することができる工法です。」

「普通のトンネルでも両側から掘って、真ん中で上手く繋がらない事があるのに、そんな事が可能でしょうか?」

「今日の測量は江戸時代の水盆で水平を取るような測量とは精度が違います。そして測量については、この実測図を作成された嶋田先生が実施されます。嶋田先生は北海道開拓史で測量を学んだ、日本最高の測量技師であります。トンネルの結合にいささかも不安はありません。」

 工法の新規さ、規模の途方のなさ、説明を聞いて、実際に工事を行う受注者としては、現実の物とは思えなかった。
この若造は夢物語を語っているのか?」朔郎が若すぎる事も業者に不安を感じさせた。

「田辺主任、さっきから夢のような事を話してはりますけど、わてらこれまで色んな現場で仕事してきましたけど、とても現実の物とは思えませんわ。ほんまにそんな工事出来るんでっか?」

「出来ます。日本の工業力はまだ稚拙といえど、西洋の技術を取り入れどんどん進歩しています。彼も人なり、我も人なり、西洋人にできる事が日本人に出来ない理屈はありません。今の日本の工業力からすると、飛び抜けた奇抜な計画と思われますでしょうが、この工事にて一気に西洋の最高水準まで追いつくのです。」

 北垣が言葉を接ぐ
「出来るか出来ないかではない。遷都以来衰退する京都を救うため、やらねばならんのだ。」「工事責任者が若い事に不安を感じているかもしれないが、ここに居る田辺君は工部大学校始まって以来の秀才。私は彼を信じている。どうか皆さんも彼を信じて力を集めてもらいたい!」

理解を得られたかどうか分からない が、熱意は伝わった。 

シャフト(竪坑)

 朔郎は、全ての工事を同時に完了すべく施工計画を立てた。

 全ルート上、最大の難工事にして最も期間を要する長等山トンネルを最初に着手し、次に山科北方の山裾を等高線ラインにて流下させる開水路の工事(この区間の施工難易度は低いのだが、掘削したての水路に水を流しても、浸透するばかりで通水まで時間がかかるため、あらかじめ水を満たしておく目的で先行的に工事するという細やかな配慮である。)、最後に京都側のトンネル区間はルート案がいくつかあるため、検討の上施工する事とした。

 長等山トンネルの掘削は、工事反対者も注目するところであり、その成否は疏水の成否に直結する最重要事項であり、これを早く仕上げる事は依然朝野にくすぶる懐疑論を払拭し、京都の人々に希望をもたらす事になる。

 7月24日シャフト建設位置をトンネル西口より740mの藤尾村の窪地に選定、作業小屋を建設、8月8日竪坑掘削に着手した。目指す坑道掘削ラインは47mの下に在る――

シャフト小屋全景 京都市上下水道局・田邊家資料をカラー化

湖上の誓い

 シャフト位置が定まり、現地に疏水ラインを示す旗が立てられ、明治18年8月3日、市議会議員・商工会関係者及び府庁課長級一同にて現地見分をおこなう事となった。

 午前4時山科の奴茶屋を出発、地質試験のため掘削した藤尾村の第一トンネル測量線や竪坑予定地を視察、小関越を越えて三井寺観音堂に至り琵琶湖を見下ろす高台に立った。
 観月舞台からは大津百町とうたわれた湖畔の街並みと丸子船を浮かべた琵琶湖水面を一望のもとに見渡すことができる。

 ちょうどこの下が長等山トンネルの東側坑口となる。一同は坑口から琵琶湖に至る水路位置を確認した。

「諸君!本日見ていただいたのが琵琶湖疏水ラインである。私の眼には既に琵琶湖から流れる水路の姿が ありありと浮かんでいる。諸君も同じ思いを抱いているものと思うが、工事着手にあたり、諸君の腹蔵ない意見を伺いたい。」北垣は一同に問うた。

 出席者からは市民の負担軽減、工法の如何、施工体制など様々な意見が出された。

 京都市商人児島定七より「工事監督として来られると聞いている南一郎平氏はいつ来てくれるのか?」との質問が出た。

「工事の監督については、人を得なければ事業の完成が危ぶまれる重大事である。経験に富んだ人材を求めていたが、旧知の南一郎平氏がこれを引き受ける事となり、疏水の計画については彼が研究し今日の計画を立てたものである。
 施工にあたり内務省に彼の出向を請うたものであるが、あいにく土木局の配置換えにより彼は土木局第一部長、すなわち内務省直轄事業の責任者となったため琵琶湖疏水の担当は出来なくなった。先日これを内務省主幹山崎氏よりこんこんと説明を受けたところである。」

 北垣が南一郎平が来ない事を話すのはこの日が初めてである。
 一同に動揺が広がった。

「事ここに至り、強いて彼の担当を求めれば疎水事業は本府を離れ国直轄事業となる。我々としては内務省直轄事業とする事を市会に稟議し、口を閉じてただ竣工の日を待つしかない。これは府民の求める所ではないと私は考える。」

「幸いここには計画の初めより事業立案に従事した田辺朔郎君がいる。彼は工部大学を卒業した「工学士」である。しかもこの工事に匹敵する柳ケ瀬トンネル工事に従事し、すこぶる実地経験に富んでいる。」

「彼の同窓である「工学士」植木平之允氏は既に山口県鯖山トンネルに従事し竣工させているが、県の担当者が施工した箇所と、「工学士」が担当した箇所を比較すると「工学士」担当箇所の方が迅速かつ堅牢でなお工事費を減じたとの事である。」

「これをもってしても「工学士」の技術は保証する事ができる。田辺をして工事責任者とすることにいささかの不安もない。」

朔郎に皆の視線が集まる。

 確かに柳ケ瀬トンネルの視察には行ったが工事は担当していない。実地経験に富むというのは北垣のハッタリである。
 朔郎本人も先日北垣から工事主任のことを打ち明けられたばかりであり、事の成り行きをヒヤヒヤして見守っていた。

 北垣の演説は続く。

「諸君がこれを危ぶむというならば、内務省に直轄のお伺いを立てるに如くは無し!」

「然るときは我々の組織は解散し、すべて内務省に委託して、ただ命に従い費用を支弁して完成の日を待つのが最善である。
 諸君は如何とするか、
 初志の如く我と共に挺身尽力して工事を行う決断をするのか、然らば只今より果然方向を定め実行に移すべきだ、もとよりこの工事は我が国未曽有の大工事なれば、困難は避けられない!」

「この国道は、諸君と共に艱難辛苦を嘗め、何としてでも工事を成功させたい!」 

「諸君!如何か!」

 大演説である。一同その勢いに打たれて静まり返った。
 
しばしの沈黙のあと商工会中村栄助が口火を切った。

「一同高説に感服したものと信じます。
 もとよりこの栄助、先に疏水工事特許のために東上した際は、許諾を得るまで京には帰らぬ覚悟で4か月毎日内務省に日参しました、
 そうまでして勝ち取った起工承諾を、なんで今更内務省に返せましょうか、我々も知事と同じく気持ちを一つに粉骨砕身務める覚悟です!」

 午後の日差しの中、今ここにようやく疎水工事の体制が整った。

広重『近江八景 三井晩鐘』. 国立国会図書館デジタルコレクション
三井寺観月舞台から見た疏水ライン 2017.11.19

つづく

毎週土曜日 夜更新予定です

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