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そすいさんぽ 大津ー鴨川コース 琵琶湖疏水の見どころ


そすいさんぽ とは

琵琶湖疏水を琵琶湖から終点までたどる散歩コースとして、琵琶湖疏水魅力創造協議会が全3コースを整備しています。
1「そすいさんぽ(大津ー鴨川コース)」
2「そすいさんぽ(鴨川運河コース)」
3「そすいさんぽ(疏水分線コース)」
パンフレットは、琵琶湖疏水記念館の他、京都市区役所・支所・出張所、大津市役所などでもらえます。

散策道「そすいさんぽ」の全3コースが完成しました。 | お知らせ | 日本遺産 琵琶湖疏水(びわこそすい)

今回大津ー鴨川コースを歩きましたので、個人的な見どころを含めて紹介していきます。(なお基本的に令和7年1月19日の写真ですが、別日もあります。)

琵琶湖取水口周辺

京都築地ー大津運河ー大津閘門ー長等山トンネル東口

今回はJR大津京駅をスタートし、ヴュルツブルク通りという洒落た名前の市道を通ってきました。

①から左の遊歩道に入ります。ここは1969年に廃止された「江若鉄道」の廃線跡です。②で疏水を渡っている橋に当時の面影があります。

①廃線跡らしいカーブ
②ちょっと分かりにくいですが、旧江若鉄道の橋台の上に小さめの歩道桁が乗っています。後ろの建物は琵琶湖第一疏水揚水機場
③そすい散歩0km表示 そすいさんぽスタート! なお、疏水さんぽマップには琵琶湖に突き出した突堤に「琵琶湖築地」と書いてあるのですが、これって「京都築地」だったのでは?
⑤大津閘門 琵琶湖第一疏水は1/7~3/14まで浚渫・清掃のため停水中
⑥水の無い琵琶湖疏水

小関越え

大津から山科へ抜ける間道「小関越え」この下を琵琶湖第一疏水最長の第一トンネル(長等山トンネル)2,436mが通っている

⑦かたたげんべえのくび

「かたたげんべゑのくび」「蓮如上人御旧跡 等正寺」

かたたって、ウチの近所の堅田? 源兵衛? 首?
なんだか物騒な石碑があったので、家に帰って調べてみました。由来を知って真っ青。

諸説ありますが、色々な記事をまとめると概ね以下のような感じ。

本願寺中興の祖「蓮如」は日本史上初めて宗教による民衆の組織化に成功し存亡の危機にあった本願寺を再興した人物です。

門徒は戦国時代に「一向衆」として恐れられ「石山本願寺」は織田信長を長く苦しめました。

1457年蓮如が本願寺第八代法主を承継した当時 大谷本願寺は他の宗派の境内で細々と命脈を保っている状態でしたが、1465年に比叡山延暦寺に焼き討ちされ本拠地を失います。

蓮如は御真影(宗祖親鸞の姿が描かれた絵図)を抱え、信者の多い近江に逃れ宗勢の回復を図ります。

湖水の水運を支配し力のあった堅田の街を教化し、地盤を固めていたが、延暦寺衆徒は1468応仁2年これを急襲した(堅田大攻め)。蓮如は一休禅師らと共に応戦するも多勢に無勢で敗走する。

この時、宗祖親鸞の御真影を、比叡山と犬猿の仲であった「三井寺」に一時的に預けて、地盤を諸国に築くべく北陸に向かいます。

いろいろあって、1480年 山科に本願寺を再興する事になり、三井寺に御真影を返してもらいに行きますが、ここで事件が起こります。

三井寺が御真影を返すのを渋り「返してほしければ、生首を2つ揃えて持ってこい」と言い始めたのです。

これを聞いた堅田の漁師源右衛門」は自分の首を差し出す事を申し出ます。あと一人誰か首を出すものはいないかと尋ねるが応える者は無く、困り果てて家に帰ると、ただならぬ様子を察した息子「源兵衛」は父を問い詰め事情を知ります。

源兵衛は即座に自分の首を差し出す事を決断。父源右衛門は「まずこの白髪頭を打ち落とし、それをもって三井寺に行け、汝はそこで首を刎ねられよ」と言うが、息子源兵衛は「親殺しは悪逆非道の大罪、まず私の首を刎ねて三井寺に持っていかれよ。」と説得。父は泣く泣く息子の首を切り落とした。

血の滴る生首を抱え 三井寺まで三里を駆けて首を差し出し「これなるは我が息子の首だ!そして私の首を打てば、ご所望の生首2つ。御真影を返していただきたい!」と言い放った。

驚いた三井寺は即座に御真影を返したそうです。

源兵衛の生首は、ここ等正寺に安置され、今も信仰を集めています。

なんとも凄まじい話で色々と思う所ありますが、先を急ぐので そすいさんぽを続けます。

⑧相場山・小関越旧道分岐点

小関越えを登り切ったところに分岐があります。

⑧相場山(逢坂山)登山口・小関越旧道分岐点 (グーグルストリートビュー)

ここから山を登ると30分ほどで山頂に着きます(ただし健脚に限る)
相場山は此処にある|鴨東

旧道を進むと長等山トンネル第一シャフトに出ます。

⑨琵琶湖疏水最大の難工事となった第一シャフトにて大川米蔵さんの冥福を祈る。何か写っていますね。ゴーストフレアなんだろうけど有機的な模様が入っていて変な感じです。

⑩には第二シャフトがありますが、民家を入った所にありますので、外から見るだけにしておきましょう。

藤尾運河・山科運河

⑪第一トンネル西口から見た掘割り区間「藤尾運河」第一トンネル内は湧水がだいぶ有りますので水が増えています。
⑫ここからは疏水沿いを日ノ岡峠に向かって歩きます。
⑬諸羽トンネル西口 諸羽トンネルは昭和45年にJR湖西線を建設する際 新しく掘られたトンネル
山科大築堤は鉄道マニア的見所

明治時代の鉄筋コンクリート2橋

⑭第10号橋「山ノ谷橋」 日本初の鉄筋コンクリート橋は明治36年に造られた第11号橋とされていますが、11号橋は鉄筋をトロッコのレールで代用しており、翌年に作られたこの10号橋が初の本格的な鉄筋コンクリート橋と言えます
⑮第二トンネル東口 ここから少し住宅街を通ります
⑯住宅街から疏水に戻るには車止めの有る細い通路に入ります。分かりにくいので注意です。(グーグルストリートビュー)
⑰日本初の鉄筋コンクリート橋とされる11号橋 周りに付けられた鉄の柵が何とも無粋ですね 奥は第二トンネル849mで疏水沿いに道が無くなるので、旧東海道筋(三条通り)に出ます

日ノ岡峠 道路史跡

⑱粟田口大名号碑

⑱粟田口大名号碑

 享保2年(1717)「木食養阿 もくじきようあ」上人が念仏回向を行った際、建立された大名号碑。
 明治時代に廃仏毀釈運動で破壊され地中に埋められていたが、京津国道改良工事の際に発掘され、昭和8年3月工事犠牲者追悼のため復元された。
 下半分は昭和40年に継ぎ足されたもの。

 木食養阿は日ノ岡峠を切り下げるなど土木工事を多数行った人で、沿道に梅香庵を開き峠を行く人に水を提供した。その跡地は「亀の水不動尊」として現在も水が流れ出ている。

昭和8年 京津国道改良工事で発掘・復元された時の姿
⑲昭和8年3月「京津国道改良工事竣工記念碑」台座には江戸時代1804-05に整備された車石を利用。記念碑自体にも溝があり、橋などに使われた車石であったと推測されている。
⑳京津国道改良工事で発掘された車石を積み上げたもの。よく見ると この付近の擁壁には多数の車石が使われている。
⑳これも廃仏毀釈で地中にあったものが発掘されたもの「経王護国」と刻まれている。

蹴上付近ー三条

(グーグルストリートビュー)三条通りから右の一般車両進入禁止の看板の所を入っていくとインクラインの上「蹴上船溜まり」に出ます。
㉑今日の田辺朔郎先生 この右側から奥に入って発電所送水管の上の通路を渡って疏水分水に沿って南禅寺水路閣へ出るのがおすすめルート。インクラインを下るのもいいです。
㉒京都の定番観光地 南禅寺水路閣
㉓ねじりまんぽ まんぽとはトンネルの事 普通に積むとアーチが土台に乗らないためねじって積んでいます。
地山に対して斜めにトンネルを抜く場合、トンネル壁面に対して直交する方向にレンガを積むと、反対側で土台の受けが無いためアーチにならない。両端で台座に力を伝えるには斜めに積む必要があり「ねじりまんぽ」となる。
㉔南禅寺船溜と琵琶湖疏水記念館 そすいカフェでは疏水を眺めながら食事できます
㉕平安神宮付近 白川から流れてきた砂を浚渫中
㉖北垣国通像(くにみっち)
㉗鴨川 夷川飛び石 今日も平和
㉘高山彦九郎像 通称「どげざ像」 皇居に拝礼している姿で土下座をしている訳ではありません

ここまでで約13km琵琶湖から長い道のりでした。お疲れ様でした。

後日談 堅田源兵衛Ⅱ 「源兵衛は2度死ぬ」

実は堅田源兵衛の首は、別の場所にもう一つあります。
 源兵衛の住んでいた堅田の「光徳寺」で、源右衛門が源兵衛の首をまさに斬り落とさんとするところの銅像があります。
 家の近所なのでちょっと見に行って来ました。

光徳寺も等正寺も頭蓋骨が安置してあり、希望者は拝観可能です。
自分は信心が無いので興味本位で見るのは失礼と思い見ていませんが、どちらが本物かというのは無粋な話で、そういう話があったと信じる事が大事なのでしょう。(お釈迦さんの骨なんて何千個ある事やら)

当時は応仁の乱が始まった頃で無政府状態。戦乱で死ぬより信仰の為に死んで極楽往生できるなら本望という人も多かったのでしょうね。
近くにある浮御堂 このあたりは昔ポケモンGOが流行った時に良くウロウロしていたのですが、堅田源兵衛には気が付かなかったです。

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