最終回【小説】田辺朔郎 ⑦琵琶湖疏水
明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・
渡米
明治21年10月9日 京都出発 汽車にて大津着 大津事務所において、不在中に想定される事について、諸々打ち合わせして夜半に及ぶ。
10日午前2時 大津から人力車に乗り込み午後4時 四日市港にて汽船「広島丸」に乗り込んだ。
つくづく朔郎と縁のある船である。
11歳のあの日に見た蒸気汽船、今なら手に取るように構造が分かる。
船上大きく突き出した天秤機構は、ニューコメン式という古い形式の蒸気機関の仕組みであり、蒸気により重りを押し上げ、蒸気に水をかけることで一気に収縮させて下がってくる重りの力で仕事をするものである。
船上の暇つぶしに、朔郎は船の図面を様々な角度から書き起こしてみた。
「まるで見てきたようですね。こんな色んな角度からの絵をどうやって描くのですか?」高木文平が聞いた。
「頭の中で船を部品から組み立てて、それを頭の中でグルグル回して、止めて写し取っているのです。」
「・・・?」
常人には理解のできない頭の働きである。
朔郎の頭の中には立体的に図形を構築し、移動回転を自由にできる働きが有り、機械を頭の中で自在に動かし、シミュレーションする事ができるということらしい。
大学時代 角の三等分問題において、複雑な接線を見つけ出したのもこの能力によるものではないだろうか。
11日午前11時 横浜港着
15日 東京工学会にて送別会
20日午後2時 アビニシア号2800トンに乗船
11月4日午前3時 バンクーバーに到着
バンクーバーからカナダ太平洋鉄道に乗車した。昨年開通したばかりの大陸横断鉄道である。
ロッキー山脈を無数の鉄橋とトンネルをもって越え、プレーリーの平原を渡り、乗車すること6日と19時間で東海岸のモントリオールに至る。その延長は1万1千km、日本一周に相当する距離である。
朔郎はそのスケールに圧倒された。
初めて目にするアメリカは何もかもが大きく、興奮した朔郎は絵にも表せないほどの絶景を前に あまり上手くない一句を残している。
「捨筆(ステペン)と実にもっとも此のけしき」
※ステペンはこの辺りの最高峰で、カナダ太平洋鉄道 前社長の名前がつけられている。
モントリオール到着後、カナダ太平洋鉄道 現社長バン・ホーン氏と面会する機会を得た。
朔郎は興奮した面持ちで「道中の鉄道橋、トンネルの数々、私のような土木を専門とする者には興味が尽きません」「我が国でも大いに参考としたい」などと語り技術者同士意気投合、面会の終わりには社長自ら「これは私が副社長の時に自分で綴った資料です。」と貴重な資料を手渡された。
(朔郎は後に北海道で鉄道を建設する際、ここで得た知見を大いに活用する事になるのだが、それはこの小説の後の話である。)
11月21日 モーリス運河に到着
ニュージャージー州北部のモーリス運河は、石炭運搬のために開発された全長172㎞の大運河である。(日本地図に落とすと日本海から琵琶湖を通り大阪湾中程までの距離に相当)
途中の高低差は270mあり、船はここを登ったり下ったりして通過していく。
船が高低差を越えて通行する方法には一般的に3つの方法がある。
① エレベーターにてリフトアップする方法
② 閘門により前後の水位差を解消して通行する方法
③ インクラインにより船を運び上げる方法
インクラインとは一種のケーブルカーであり、斜面に複線式のレールを設置し、上り用と下り用の荷台を乗せてケーブルで結び、滑車に架けて一方が上がれば一方が下がるようにした、つるべ式の上下往復システムとなっている。
ここモリス運河では合計23箇所のインクラインが設けられていた。
琵琶湖疏水では蹴上船溜と南禅寺船溜をインクラインで結ぶ計画をたてており、その参考とするべく訪れたのである。
なお、エレベーター方式は設備が大規模になるためコストが大きく、閘門方式は、パナマ運河やスエズ運河で使われ、大きな船を通す事に向いているが、高低差の解消に限界があり時間もかかる。疏水を通る船の大きさであればインクライン形式が一番向いている。
モーリス運河では、荷台を水中まで進め、荷台の上に船を移動し、そのまま船ごと荷台を引き上げ反対側で荷台ごと水中まで進み船を発進させる「両持ち式」が採用されており、琵琶湖疏水においてもこの形式を採用する事とした。
実際に動いている物の視察は、大いに参考となり、朔郎は頭の中でいくつか図面を引いた。
完成すれば、蹴上インクラインは世界最長の運河インクラインとなる予定である。
12月3日 ボストン北方の工業都市リン市にて電気鉄道を視察。
高木文平はこの時の経験から電気鉄道の有用性に着目し後に「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任する事になる。
12月5日 マサチューセッツ州ホルヨークに到着、水車の動力利用について視察。名目上の目的地ではあるが、水車の動力利用には広大な敷地が必要であり、利用の自由度も制限されるため、もはや魅力を感じるものでは無かった。
ローエル市やニューヨークにて電気技術者や鉄道技術者を訪問、技術上の意見交換を行う。この頃のアメリカは電気の普及期にあり、街灯が夜を照らすようになっていた。街には高層ビルが作られ始めており、日々面目を新たにする段階にある。
電気・鉄道・鉄筋コンクリート、これらの文明を日本に普及する事が自分の使命に感じられた。
水力
12月28日 コロラド州西部、ロッキー山脈にある銀鉱山の街アスペン市に到着した。ここに建設された世界初の営業用水力発電所がこの視察の真の目的地である。
アスペンに建設された発電所はわずかに150馬力であり、朔郎が予定している2000馬力の発電所とは隔絶の差があった。
また水車による発電を一定にする調速装置については、ランプの明るさで電圧を見ながら手動で調節する原始的な物だった。
水力発電が一般に普及していないのは、流量の変化に対し電圧が一定せず、灯具に使用するには照度が変化して都合が悪いという理由がある。これを改良して電圧を一定にする必要がある。
アスペンの発電機は、ペルトン式水車を利用し、ホイールの周りに取り付けたバケットにノズルから水を噴射して回す構造となっていた。
朔郎は水車の挙動を観察し、このノズルを水圧により上下する事で回転を制御する手法を思いついた。すぐさま脳内で装置を組み立て図面を書き上げた。
明治22年1月3日サンフランシスコのペルトン水車会社に図面を持ち込み、考案したハイドロリック・デフレクティング・ガバナー(水圧式除斥調速装置とでも訳すべきか)の製作を依頼した。
大きな収穫を得た米国視察を終えて、明治22年1月5日ワシントンから汽船ベルジック号三千トンに乗り帰途についた。
帰京
明治22年1月23日横浜着同31日約四ヶ月ぶりに京都に帰ってきた。路面電車が走り、街灯が夜を照らすアメリカから帰ってきた身には、日本の遅れが一層感じられた。
だが、これから京都は変わる。疏水が完成し、水力発電所が出来れば、街の景色も一変するにちがいない。朔郎は決意を新たにした。
ひとつ思ってもいなかった事があった。
朔郎が留守中にも夜間学校は継続し、自分たちで勉強を続けていたというのである。おのおの施工上の改善テーマに取り組みいくつかのレポートがまとめられていた。
その中には次郎少年の書いた物もあった。
「次郎君、これはどういうレポートだね?」
「はい、レンガには厚いものと薄いもの2種類がありますが、体積と値段の比率では厚い物が有利なはずなのに、実際の施工においては厚いレンガの方がトータルコストが高くなっている事に気がつきました。それを実地に調査してまとめた物です。」
「それは気がつかなかったな、理由は何かね」
「はい、まず通常のレンガと比べ大型のレンガは施工性に劣り職工の人件費がかさみます。
トンネル内のレンガアーチはセントルにレンガを積み上げて構築しますが、厚いレンガではセントルに乗せた時の隙間が大きくなるようで、セメントの使用が増加します。セメントは輸入品であり費用が高く、これがコスト増大の原因となります。」
朔郎は、教え子の成長に目を細めた。
自分の留守中も色々あったはずだが、彼らの様子を見て、創意工夫して乗り越えてきたのだろうと頼もしく思った。
貫通
朔郎の帰京より1ヶ月後、明治22年2月27日長等山トンネルが貫通。開削に着手してから2年半ついにこの日を迎えた。
全長2.4㎞を掘削して、トンネル中心線のずれは、南に7.4㎝、高低のずれは1.2㎝とほぼ完璧な結果であった。
疏水工事の成功を疑う者はもはや誰もいない。
こうなると勇気百倍、作業員の練度も上がっており、日一日と面白いように工事が進んでいく。以下簡単に概要を記す。
3月2日 大津閘門完成
5月1日 インクラインにレール敷設
8月2日 ペルトン水車到着
8月3日 第二・第三トンネル落成
9月8日 長等山トンネル断面の堀り拡げ完了
10月20日 長等山トンネル上部レンガアーチ完成
12月23日 長等山トンネル壁面レンガ積み完成
明治23年2月13日 長等山トンネル底面保護工完了
3月14日朝 大津より通水開始 夜半安珠川に到達
3月15日 大津よりの通水が京都に到達
3月19日 試験通船
予定工期6年に対し、実工期4年10ヶ月と短縮し、琵琶湖疏水は今や竣工式を待つばかりとなった。
疏水概要
竣功なった琵琶湖疏水を大津側から見ていこう
琵琶湖に200mほど突き出した2列の堤防は、波浪により疏水に濁水が入るのを防ぐため、掘削土砂を盛って築き上げたもので「京都築地」と名付けられている。
続く水路を「大津運河」といい、延長545mで長等山トンネル(第一トンネル)入口に達する。
運河途中に「大津閘門」が設けられ、湖水と疏水の高低差を解消して通船の用に供するとともに、疏水への流入量の調整を行っている。
なお、この落差を利用して小規模な水車が取り付けられており、長等山トンネルを遡る船を牽引する動力としている。
続いて長等山トンネルが三井寺観音堂の下に口を開けている。全長2436m、トンネル入口は花崗岩のアーチにて門が築かれており、伊藤博文揮毫の「気象萬千」の扁額が掲げられている。
内部は全てレンガで巻き立てられており、途中第一シャフトでは今日も雨の様に水が降っている。
山をくぐり、藤尾に出ると掘割区間「藤尾運河」が945m続く、そこから山科北方の裾野を巡り蹴上に至る開水路を「山科運河」といい、途中の第二・第三トンネルを除く延長は3618m。
第二トンネルは山科村御陵の延長124mの小トンネル。
最後に日岡山をくぐる第三トンネル849mを抜けると、インクライン上側の蹴上船溜まりに到着する。
ここまでの距離は約8㎞、琵琶湖水面との高低差は約4mであり、平均勾配1/2000でゆるやかに流下させている。
インクライン下の南禅寺船溜まりとは高低差が35mあり、この落差にてペルトン式水車を回し、水力発電を行う。
インクラインと水力発電所の規模は、世界一であり、着工当時は材料の調達もろくにできなかった日本が、世界に追いつくどころか、一気に追い抜いてしまったのである。
蹴上船溜まりから、疏水は「鴨東運河(水は発電所経由・船はインクライン経由)」と北方から京都中心部に向かう「疏水分線」に分かれる。
疏水分線は、蹴上から北上して、南禅寺境内上空をレンガ造りの14連アーチ水路橋「水路閣」にて通過、更に北に進み銀閣寺付近に至り(現在この水路沿いの道は「哲学の道」と呼ばれている。)そこから高野川と加茂川をサイフォンにてくぐり、小川頭(堀川通り)まで至る。
「鴨東運河」は当初鴨川に注いでいたが、これより少し後、鴨川の東岸沿いに「鴨川運河」が作られ、琵琶湖疏水は伏見まで伸び、宇治川・淀川を経て、大阪・兵庫にまで船で移動できる運河ネットワークとなった。
交通の不便、水の不足を解消し、この後京都は遷都後の衰退から見事に復活を果たす。
特に設計変更により導入した水力発電の効用は絶大であり、安価な電力により産業は発達し、市内に電気鉄道が整備され、電気事業の収益により、京都市は疏水工事の負債を約20年で解消した。
竣工式
明治23年4月9日 天皇皇后両陛下のご臨席を賜り、聖護院の夷川船溜まり付近にて竣工式は盛大にとりおこなわれた。
皇族・総理以下各大臣は 大津から疏水舟に乗船、長等山トンネル山科運河などを遊覧し、式典会場では、三条通りと川端通りに大きな緑門が設置され、電球数千、国旗の吹き抜け等が飾り付けられ、101発の花火が打ち上げられた。沿道には府下の生徒が列をなし、祝いの旗を振った。
夜には運河沿いにて竣工夜会が行われ、参加者500余名が、楽隊の演奏、祇園囃子をならしながら行き来する舟を鑑賞し、南側には月鉾、鶏鉾、油天神、郭巨山等が陳列され鉦やラッパ竹笛などを打ち鳴らした。
宴たけなわに至り、大文字山に大の字が点火され、雲一つ無い碧天に輝いた。
会場が大いに盛り上がる中、朔郎は一人離れて静かに喜びをかみしめていた。
朔郎は恩師ダイアーの「自ら大きく楽しんではいけない」という教えをこう解釈している。
工学は人々の幸せのためにあるものであり、エンジニアは社会への奉仕者である。大きく楽しみをむさぼると、我が身の名声や栄華に心が捕らわれてしまう。その結果エンジニアとしての純度が下がる事を戒められたのだと。
朔郎は三条蹴上に大川米蔵他工事犠牲者17名を追悼する石碑を私費にて建立し、自らの竣工式とした。
田辺朔郎28歳 技術者としての挑戦はまだまだ続く
おわり