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田辺朔郎をご存じですか?


音羽山山頂より見た琵琶湖疏水ライン

田辺朔郎 たなべさくろう」をご存じですか?

京都で聞いても10人に1人ぐらいしか知りません。
それもかろうじて名前を知っている程度。

では「琵琶湖疏水」は?
京都市の水道は99%琵琶湖疏水により供給されています。
京都市は滋賀県に「琵琶湖疏水感謝金」を支払っており、
今年がちょうど契約更新の年にあたりニュース等で見られた方もいるでしょう。(2015~2024年度の感謝金は年2億3千万円)

この疎水は明治18年~23年にかけて日本人技術者の手により建設されました。

工事を指揮したのが「田辺朔郎」
工部大学(後の東京大学工学部)在学中「琵琶湖疏水工事の計画」と題する論文を発表、明治16年大学を卒業し21歳で京都府に就職。

すぐに琵琶湖疏水の設計を担当し、議会や中央官庁との折衝を第3代京都府知事「北垣国通 きたがきくにみち」と共におこないました。

明治18年に起工承諾を得たのちは
明治19年2月より工事部長として琵琶湖疏水工事の最高責任者となり、約5年の歳月をかけて当時の工業レコードを塗り替える数々の難工事を完遂しました。

また、工事途中にアメリカで世界初の水力発電所建設の報を聞くや、直ちに視察に向かい、当初計画を大幅変更して水力発電所を建設
これは当時世界最大の水力発電所であり、欧米からも視察に訪れる世界最先端の設備となりました。

当時の日本は欧米で始まった産業革命に100年ほど出遅れており、明治維新以降大急ぎで欧米の技術を取り入れていたとはいえ、工事開始時点では疎水工事に使うレンガや、ちょっとした部材の調達にも事欠くありさまで無い無い尽くしの状況を自前で一つ一つ解消し、ついには世界最先端の事業を成し遂げました。

これを大学を出たばかりの若者がおこなったという事実は、それだけで伝説と言ってもいいでしょう。

そんな人の知名度がほとんど無いに等しい。
それどころか色々調べてみると、通説・俗説として広がっていることが間違っているのではないか? という思いが強くなってきたのです。

(通説・俗説)
・田辺朔郎は大学で独自に琵琶湖疏水の研究を行っていた。
・論文を見た京都府知事北垣国道が一目で気に入り工事主任に抜擢した。

ところが、早い時期の記述では以下のとおりの経緯となっている。
「田辺朔郎博士60年史」大正13年
・北垣知事は疏水工事を担える日本人技術者の人選を工部大学校長の大鳥圭介に相談した。
大鳥圭介は「明年卒業の田辺朔郎という者ならばこの大工事を成し遂げるに相違ない」と紹介した。
・田辺朔郎は北垣知事からの依頼に感激し、この研究に取りかかり明治14年に京都に赴き調査を開始した。

学生が独自に調査した論文を見て、出会った瞬間に信頼し、世紀の大工事を任せるというストーリーより、こちらの方が自然です。
自分の今の結論としてはこちらを推しています。

こんなふうにねじくれ曲がって伝わった理由については文献を上げながら有料記事のほうで紹介したいと思います。


田辺朔郎と琵琶湖疏水の事については、本を書くために色々調べました。
本を書くのは初めてでしたが、色々調べて妄想して形にまとめるのは今までにない貴重な経験で、執筆中偶然田辺朔郎に関する出来事が何回かあり、背中を押されているような気持ちになりました。
 実際に本として出版できるかどうかは まだ未定なのですが、執筆の過程で色々と調べたけれども、冗長になるので本編には書けなかった事柄を これから色々と書き記していきたいと思います。

よろしくお願いします。


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