見出し画像

牛車(うしぐるま)絵図と往時の姿

三条街道 白川橋付近で橋を通らず川の中を通る牛車
日文研データベース

大津から京都三条まで、荷物を運んでいた牛が曳く貨車を牛車(うしぐるま)と呼んでいました。
 街道筋は人馬道と車道(くるまみち)が分けられ、牛車は人馬道から1段下がったところに専用の道があり、歩行者と分離されていました。
 車道は元々は土の道でしたが、1800年頃から2列に並んだ敷石「車石」(くるまいし)が敷かれており、牛車はこの上を通るようになりました、上の絵は2列の石の上を車両が通行しています。
 牛車についてはその大きさに諸説あり、現在のところ定説が定まっていません。
 ここでは まず色々と画像を集めてみたいと思います。

明治8年荒神橋 京の記憶アーカイブからカラー化処理

明治8年のキャプションがある荒神橋の写真です。
 明治8年は京都府第2代知事 槇村正直が日岡峠の改修に着手した年で、大津ー京都間の車石が現役であった最後の年です。
 写真は牛車の姿を最も正確に写したものと考えます。
 車輪の直径は150cmはあるでしょうか、大八車をそのまま大きくしたような形です。
 車幅について130~150cm程度まで諸説ありますが、自分は車輪の中心ー中心で150cmであったと考えています。
 おそらく、平安時代の牛車(ぎっしゃ)のサイズをそのまま踏襲したのではないでしょうか。「ぎっしゃ」は4人乗りで、昔の規格の軽自動車ぐらいの大きさと思われます。

〔松平定信//筆〕『輿車図考 零本』第3軸,写, 国立国会図書館デジタルコレクション
現在輿車図考・現在輿車図考稿本
車内の畳 1尺7寸×2≒103㎝ 4尺≒121㎝
京都御所 牛車 
京の記憶アーカイブ
追分の走井餅付近を進む牛車

安藤広重(最近は歌川広重って言うらしい)の時代は既に車石があり、上の絵は不自然に牛が直列しているので 実際には車石の溝を進んでいるものと考えます。

 広重さんが、面倒くさいので省略したのか、映えないから省略したのか分かりませんが、ちゃんと車石を描いてほしかったなー、などと考えていたところ、先日のブラタモリで三条大橋の広重の絵を見てタモリさんが「見ずに描いたのかな?」「あの人ってそういう所あるよねー」と言っていたのを聞いて、一人で「そうそう!」と爆笑していましたw

江戸の春米屋 関東の車両はちょっと違うように考えていますが、これは京都の物に近いようです
鈴木直二 著『徳川時代の米穀配給組織』 国立国会図書館デジタルコレクション
伏見人形 牛車  京の記憶アーカイブ
目つきがカワユス
真如堂の牛車  京の記憶アーカイブ
牛の足の部分に車輪が付いていて子供が遊べるようになっています

大津ー京都間でどれくらいの通行があったのか、下の大津米会所(大津港にあった米市場)の記録から推定します。
 「大津着米」が大津港に入港した米、「為登米(のぼせまい)」が京都に送られた米、「大津潰米」は大津における消費(精米して京都に送ったのかも)です。

喜多村俊夫 著『近江経済史論攷』,大雅堂,1946. 国立国会図書館デジタルコレクション

為登米は寛政2年頃から記載があり、30~70万俵の米が京都に送られています。
 大津着米の増減については西廻り航路の開発による敦賀からの北陸米の減少が関係しているのではと思いましたが、時期が合わないので、単純に大阪との市場の取り合いの結果なのではと考えています。
 さて、年間60万俵を送るとなると、1日あたりは約1644俵、牛車は9俵積みだと言われていますので、約183台の車両が京都に向かった事になります。
 なお、車道は午前中は京都向き一方通行、午後は大津向き一方通行でしたので、京都まで約2時間として、午前中京都に向けて出発できる時間は4時間程度しかないことになります。
 つまり、1時間あたり45.6台、多い時は毎分通り過ぎるという過密ダイヤになります。
 実際幕末の外交官アーネストサトウは、追分から大津の間で40台の車両とすれ違ったと日記に記載していますので、その程度の交通があったものと思います。
 壮観ですねー。
 広重さんの絵は誇張ではなく こんなふうに連なって通行していたようで、その辺は写実的なのになー、残念。


(訂正)
半分程度は馬借が馬で運んでいたようなので、通行量は半分です。

木曽海道六拾九次 大津 東京国立博物館所蔵
大津港から逢坂山に向けて登っていく牛車
沖には丸子船が白帆を揚げて走っています。

※なお、このあたりには車石が整備された記録はありません

C0047083 木曽海道六拾九次_大津 - 東京国立博物館 画像検索


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?