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車石に関する論考 (京津間における舗装史)

以下の車石に関する文章は、友達にそそのかされてちょっと論文風に書いてみたものです。どこかに出すあてもないので、ここに置いておきます。


(まえがき)

 東海道は古来より交通の枢要であり、中でも京津間は琵琶湖の水運を利用し、東海道・北陸・北海道・さらにはシベリア鉄道経由で欧州までの物流を遠望できる日本物流史が集約された区間であると言えるだろう。
 この区間の物流には、歴史上、宿駅制による駅馬、牛車(うしぐるま)による物流とそのための車石(くるまいし)の整備、近代的な道路整備、鉄道、琵琶湖疎水の舟運など、多種多様な手段が行われており、それぞれ興味が尽きないところであるが、本稿においては車石の実態に迫っていきたい。

京津国道改良工事の際 大津市上片原町で発掘された車石 昭和6年5月19日 京都国道事務所所蔵写真
牛車の写真 明治8年荒神橋 京の記憶アーカイブからカラー化処理

(車石とは) 

 初見の方のために、車石の基礎情報を提示する。

・車石は牛車による運送時に車輪の通過による道路の損傷を防止するために、2列の石を並べてその上を通行させたもの。

・石には車輪の位置に溝が存在していた。

・街道は人馬の通行部分(人馬道・往還)と牛車の通行部分(車道)に分かれており、車道が一段下に設けられていた。

・大津市札の辻から京都三条の他、鳥羽街道、竹田街道に整備されていた。(江戸幕府は he防衛政策上街道での車両の使用を禁じており、京都周辺のみ特別に牛車の使用が認められたもので、京都周辺以外での整備は無かったと考えられる。)

・1車線のみの整備であり、午前中は京都向き、午後は反対方向の一方通行であった。

(車石研究の現在点)

 車石の研究については、優れた先行研究があり、特に車石・車道研究会等の精力的な調査のもと平成24年に大津市歴史博物館で開催された「車石展」がその到達点であろう。
 車石に関する疑問点は過去からいくつか提示されていたが、解決されたものもあり未解決の問題もある。ここにあらためて過去の研究成果を紹介しつついくつかの考察を追記していきたい。

1.車石はいつから存在していたか

 人馬道と車道を分ける事は車石が整備される以前より実施されていたようであり、このことが“車道=車石の整備”という誤解を生み、整備年代の推定に混乱を生じていたようである。
 木食養阿による日岡峠改修(1734-1738)の際、その工法について試行錯誤を繰り返した結果「大石砂留め方」という工法に決着しており、車石の発想が無かった事が見受けられ、この時点では車石は無かったと結論づけるのが妥当であろう。〔安田真紀子「東海道日岡峠における木食正禅の道路改修事業」1990奈良史学第8号〕

 文献上明確に車石の整備が出てくるのは、脇坂義堂の発意とされる街道整備(1804-1805)であり、この時大津市札の辻から京都三条まで車石を整備した記録が残されている。
 工事は8工区に分けて発注され、受注した地元の村には全長16mに及ぶ街道全体の絵図と工事の仕様が残されており、先の木食養阿による日岡峠改修から70年の間に車石の施工法が発明され、採用されたものと見受けられる。
 なお、同図面には一部区間において既存の溝が付いた石を補完・再生して使用することとの記載がある。大部分の区間は新設されたと考えられるところであるが、一部区間では車石の使用から10年単位の時間が経っていたものと推測される。

 石の仕様を決めるに当たり、大きすぎればコストが嵩み、小さすぎれば車輪が逸脱する、グラついてメンテナンス頻度が増加する等の不都合があると思われれ、石の大きさについて、この大きさがベストというのが有るはずであり、車石は本工事で発明されたものではなく、先行して使用実績があったと考えるのが自然であろう。

2.車石の溝はあらかじめ付けられたものか、摩耗により自然に付いた物か

 車石・車道研究会が現存する車石を広範に調査した結果、車石の溝は浅い物や深い物 様々存在すること、施工時の石の要求仕様に溝の記載がなく、工賃にも含められていないこと等から、前記車石展の時点で車石の溝は通行により摩耗して付いた物と結論づけられている。
 冒頭の京津国道改良工事の写真は、使用されていた当時の車石の姿がそのまま発掘されたと考えられる物が写されており、そこに並べられた石には溝は存在せず、上記の結論を裏付けるものとなるだろう。

下は「明治以前日本土木史」に収録された同じ工事の写真 筆者の推測では上の写真の奥の位置
 ここまで轍掘れが進むとそろそろ交換時期と考える。
なお本発見については、京津国道改良事務所より滋賀県学務部長あて昭和6年7月13日に「逢坂山車石に関する件」として報告されているが、達筆すぎて全部は読み取れませんでしたが、2mの切り下げ工事をしたらしく、上の車石は撤去済みと考えられる。

  車石に溝が刻まれる機序

 1805年の車石整備後、1885-1887(明治8-10)には京都府第二代知事 槇村正直による日岡峠の改修事業でマカダム舗装が施されており、同時期に逢坂峠においてもマカダム舗装が実施され車石はその役目を終えたものと考えられる。
 この間わずか80年であり、現在見られる深い溝は長くとも80年で刻まれた事になる。表裏で2回使用された石もあり、傾斜にもよるのだろうが溝の形成は相当のスピードで進んだものと推測される。
(※マカダム舗装は単に砕石舗装とも言い、砕石のみで安価に路盤を作るように改良されたイギリス人技師マカダムが広めた舗装工法)

 ではどのような機序で溝が刻まれたか考察すると、牛は2列に並べられた堅い石の上を避けて中央部を歩くため、自然と最大公約数的に車輪が多く通過する部分が定まり摩耗が集中する。一旦溝が形成され始めると車輪はその位置に導かれ溝の形成を加速していったのではないだろうか。

  車石という冴えたやり方

 ここで2列に石を並べるという発想が、いかに冴えたやり方であるか述べておきたい。

第1、2列に石を並べ、間に石を敷かない事で、牛が中央を通るように誘導される事。またそれにより自然に溝が形成される事。

第2、穿たれた溝がレールの役目を果たし、左右方向への力の散逸を無くし牛の曳く力を効率的に推進力に変換し、エネルギー効率の極めて高い輸送を実現すること。

第3、舗装が痛んだ際、2列の石をすげ替えるだけで補修できるためメンテナンスコストが極めて低い事。

 輸送効率について、一般に鉄道の輸送効率は自動車と比べて7~10倍と言われている。これはレールと鉄の車輪の組み合わせが、ゴムタイヤと舗装道路の組み合わせと比べ、転がり抵抗・摩擦抵抗が少ない事によるとされている。鉄道までとは言わないが木の車輪と石の溝による抵抗値は自動車と鉄道の間にあるものと想定される。
 メンテナンスについて歴史上の事例を見れば、ローマの街道は全面的に石を敷き詰める豪華仕様であったが、ポンペイで出土した街道の写真を見ると、自由に通行した結果、轍掘れが縦横に錯綜し路面の平坦性が失われていた事が見て取れる。これの補修には全面的に作り直す事が必要であり、インフラ維持コストの増大がローマ滅亡の一因として挙げられるのも、むべなるかなというところである。

3.車石の軌間はいくらであったか。

 先の車石展における車石・車道研究会の推論では
①昭和7年京津国道改良工事で壁面に復元された車幅136~7cm
②目撃談による推定120~180cm
仕様書からの推定150cm、
結論として135~140cm
としている。

 冒頭の写真には、往時の車石遺構の横にトロッコのレールが写っており、これを元に軌道幅を測定する事が可能となっている。
 別写真より、工事に使用されたのは加藤製作所の4.5tガソリン機関車である事が分かり、その軌道幅は61cmである。
(※鉄道における軌道幅はレールの内-内の幅で示されるものであるが、本稿における車石の軌間については溝の中心-中心の幅を示している事に注意)
 この61cmを元に写真上で、車石の中心-中心を計測するとおよそ150cmとなり、車石の工事仕様とも一致する事になる。

工事用トロッコの軌間61cmを元に計測  車石の中心-中心で概ね61×2.5=152.5cm

 ただし、この写真にはまだ溝が形成されておらず、必ずしも中心に溝が付いたとは限らないという異論を挟む余地があり、これについて更に考察する。
 比留田家文書によると工事の仕様は中央に3尺幅の砂利敷き、その外側に幅1尺7・8寸~2尺2・3寸、厚さ7・8寸~1尺、長さ1尺5寸~8・9寸の石を並べる事となっている。
 この仕様をどう施工するのが合理的か考えると、まず中心線を墨出しして、そこに3尺の物差しをあて、両側を床堀り、石材を据え付け後 中央3尺の表層を削り取り砂利を充填する事が合理的と考える。
 冒頭写真から見ても中央のラインが整っており、中央3尺を開けて石が設置されたのはほぼ間違い無いと思われる。
 そうであれば石材の長さによって溝の付く位置は変わってくるが、左右どちらかに3尺幅から車輪の幅に応じた数値が最頻値として現れる事が予想さる。
 大津市歴史博物館に並べられた55個の車石について、全幅・右幅・左幅を計測した。

大津歴史博物館前に展示された車石(黄色は寸法の書き込み)
この復元もちょっとおかしいので修正してくれるといいのだが・・・

 結果は下の図1のとおりであった。右幅・左幅の最頻値は23cmで、顕著ではないがそれを中心として分布しているように見受けられる。
 23cmを元に幅員を計算すると、中央3尺90.9cm、23cm×2、溝幅13cm÷2×2で合計149.9cmとなり写真上の計測と一致する。軌間が150cmであることの傍証となろう。
 なお、石の全長については、仕様書上2尺2・3寸~1尺7.8寸(69.59cm~51.51cm)と定められているところ殆どの石は規格内の寸法である。最頻値は60cmであり、現場では2尺(60.6cm)を基準として切り出したと考えられる。2尺で石を割る事はそれほど難しい作業ではなく、規格からはずれた物については、後世の補充や間に合わせで近くから調達した石の可能性がある。

図1 車石の溝の左右幅の計測結果

(おわりに)

 車石を子細に触診すると、その表面はつるっとしており、以前は車輪の通行により溝以外の部分も磨かれたのであろうと想像していたが、溝の近辺に向かって研磨の度合いが強くなるといった事象は観察されず、規定寸法を大幅に超え石列からはみ出ていて、車輪が通行したと思えない部分も端々まで磨かれたような状態となっている。
 表面が磨かれた機序については車輪の通行以外の理由を考える必要がある。例えば車石の保全について、近隣の村に石の上に溜まった砂の清掃等の維持管理が割り当てられており、日々の清掃で磨かれた事が考えられるが、日々の掃き掃除でここまで摩耗するのか少々疑問に感じるところであり、更なる検討が必要であろう。

 車石は歴史の狭間に一瞬だけ存在した遺物であり、その実態を解明する事は難しく、一つ謎が解けるとまた次の謎が出てきて興味が尽きないところです。新たな史料の発見などにより研究が進む事を希望しつつ本稿を終わります。

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