絶望のキヲク
今思うと30代から40代は何度も「絶望」してた気がします。
今思えば……なんですが。
今の私は絶望はしていません。
日々、のほほんとこれからどんな世界が広がるのかな?
と楽しみに生きてます。
グッと広がる日もあれば、数ミリも変わらない日もある。
トラブルもまた楽しい♫
当時の私は「私絶望してる」なんて認めることもできない負けん気の強さがありました。
嘘です。
絶望したら母や姉に叱られて嘲笑われると思ってたから。
それをされて嫌な気持ちになるのが嫌なので、負けん気を発揮してただけです。
神様と言われる存在は時として洒落にならないような強制終了スイッチをぶち込んでくる。
鬱になる程ひどいじょうたいだったのに「私はまだ大丈夫」と頑張った挙句がアトピー性の白内障と網膜剥離の発症を促し、3年で右目がほぼ失明して、さらに3年かけて左目の視野も多分4分の位置になった。
それでもお父さんは末期の癌で余命宣告受けてるし、お母さんはさっさと自分の状態に見切りをつけたか、転倒をきっかけにアルツハイマーの道まっしぐらだし。
姉も仕事と家庭で忙しいし。
そんなところに「私も障害者になっちゃったから」なんて甘えるわけにもいかず。
一人で生きていくために上を向かないと!
と、絶望していることに気が付かずに頑張ってた。
ただただ家族のモラハラを受けないようにするために。
歯を食いしばって頑張ってた。
お母さんも可哀想な人だもん。
お姉ちゃんはあんなに頑張ってる人だもん。同じ姉妹でこんなに違うのは腹立つけど、私はお姉ちゃんみたいな努力もできないし、仕方ないよ。でもどうしておんなじ姉妹なのに……
そんなことを思いながら毎日過ごしてました。
父が亡くなった後、姉は私にさらに厳しくなり
「あんたのことも私が責任みなあかんねん。だからあんたを自立させるために力を貸すけど決めるのはあんた。やらへんかったらひとにたよっていきていき」
と、干渉なのか、ハラスメントなのかよくわからない対応ぶり。
それに振り回されて私は疲弊していた。
けれど頑張らないと、姉に酷く言われてしまう。
そんな中で疲弊している私に声をかけてくれた人がいました。
「なんでお姉さんのいきなりになってるん? 離れた方がいいよ。君とは波長があってへん。むしろそこに引きずられて君の波長がどんどん悪くなる」
その人にそう声をかけられて、私はすぐに行動できなかった。
けれど、その人の治療院で治療を受け続け、仕事場も貸してもらうなどして、毎回同じことを言われ続けているうちに決心した。
「血縁だけど他人だもんね」
そして私は姉から離れた。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんの家族を大切にしてください。私は行政に助けてもらうから、福祉の手を借りれる術があるから大丈夫。お元気で」
姉からは謎の言い訳めいたLINEがゾロゾロと届いたが、
「うん、ありがとう。さようなら」
と送った後連絡が来なくなった。
あれから四年くらい経ったかな?
2年ほど前から私の環境が変わってきた。
その前の2年は「本当の精神の自立」を目指してがむしゃら?だったようで、記憶は曖昧だけど。
住環境も仕事の環境も特に変わってはないけれど、その頃から私の視点や価値観が変わってきた。
自分が変われば世界が変わるのは本当だった。
この2年のうち、前半の一年は色んな人の手と力を借りてトラウマ解放の準備。
それが進んできたら事故の解放が始まってその家庭で
「私は女性じゃないんだ」と気がついた。
けれど生物的に女性であることに嫌悪感はなく、身体がこうであっても自分のうちに女性性と男性性が混在していることに気がついた。
だから中学高校生の時に同性にほのかな恋心を抱いたのも、男性を受け入れていたことも私にとっては何も間違いではなかったと……その時自分の中で全てが納得いった。
けれど「女」として「娘」として生まれた私は母に怒られたくなかったから母に怒られないように自分でも無意識のうちにそこに蓋をしていた。
そして結婚して失敗して、両親や姉に呆れ返って馬鹿にされるのが怖くて、彼らのもとで必死に頑張ってた。
そりゃ絶望しかないわなぁ……
けど、絶望の中でも、私は最後の一戦は越えることはしなかった。
そうして「生」に縋り付くことができて今、ここに在る。
人はその最中にいるときは、周りがえてして見えていないものなのだろう。
そこから離れてもといた場所を俯瞰してみた時に己のいた場所をが見えるのだ。
だから今、私は絶望はしていない。
重複障害者で一人でいるから周りの人は心配してくれるけど。
今は心から言える。
「大丈夫。やばくなったら助けてね」
そう笑ってお願いできる人たちが周りにいてくれる。
そんな私が絶望なんてしていない。
お読みいただきありがとうございました。