8月25日のお話
西海岸の国道沿いにその白い一軒家のカフェはありました。こじんまりした四角く真っ白な壁に、沖縄らしいオレンジ色の瓦をかぶった屋根が夏を先取りしたような日差しに照らされています。
森ミキがその一軒家をはじめて見つけたのは昨年のことでした。仕事を捨てて沖縄にまで来て勝ちとった”結婚”という生活がたった2年で破綻し、途方に暮れていたとき。どうすれば良いかわからなくなったミキに、前職の上司が紹介してくれたのがこの白い一軒家と前の持ち主の息子さんでした。
「母が春に他界したのですが、どうしても、このカフェを潰せなくて。」
そう話してくれた息子さんはミキに対し「森さんが次の仕事を見つけるまで、この夏だけでも良いので」と控えめな様子で、カフェの運営を依頼しました。
上司からは「得意先の社長だから、その息子」とLINEが来ていて、断るに断れなかったミキが、その店を再オープンすることにして2ヶ月。再開の噂を聞いて、地元のかつての常連さんから始まり、観光シーズンの夏休みに入ったこともあり、ミキは余計なことを考える暇もないくらい忙しい日々を過ごしていました。
常連さんからは、以前の持ち主のおばあさんのことや、壁にあしらってある”シーグラス”のことなどをたくさん教えてもらい、8月も終わりに近づいた頃には、ミキ自身も観光客との会話に困らないほど「ここ」のことを知るほどになりました。
元来、長くホテル業界にいた彼女です。接客はもとより、観光情報を伝えたり調べたりするのは得意分野でした。どんな土地に転勤しても、勤務先のホテルがかつての彼女の居場所であったように、観光地にある”ハコ”であれば仕事を通じて自分の居場所にすることができるのです。
「仕事であれば。」
21時。夜も客が来る間は開けておく方針のこのカフェも、流石にこの時間になれば店じまいです。ひとり、レジを閉めて掃除を終えたミキは、ふと、呟きました。
仕事だったら、こんなに短期間で馴染むことができるのに。
彼女はダメになってしまった結婚生活のことを振り返っていました。「何がダメだったのか」「いつから間違ってしまったのか」そんなこと考えてもどうしようもないことはわかっていても、考えずにはいられません。
東京と沖縄の遠距離恋愛で、このままでは心がどんどん離れていきそうになった時。あの時、それでも彼は運命の人だから、自分がこれまで取らなかった行動を取ろう、その判断が間違っていたのでしょうか。
それとも、仕事をやめて沖縄に押しかけた年。その年は、まだ感染症による観光業界へのダメージが大きくて、ミキが希望するホテルの仕事に全く就けませんでした。そこで「長い人生だし、ちょっとくらい専業主婦になるのも良いかな。セージと一緒に過ごす時間も増えるし」などと甘えた考えで逃げ出したのがいけなかったのでしょうか。
もしかしたら、あの時。セージが東京に来てくれたあの一週間。仕事は休みたくない、などとわがままを言わず、せっかく来てくれた彼とじっくり一緒に過ごすべきだったのではないか。「良いよ、俺も東京久しぶりだし、昼間は適当に遊んでおくから。」そうやって遠慮してくれる彼の気遣いに甘えすぎたのかもしれません。
そう思うと、あの一週間が終わってから、セージの反応が少しよそよそしくなったようにも感じます。もちろん、自分から「連絡しないで」と突き放したことが連絡を取らなくなった直接の原因ですが、それでも、本当なら何かと理由をつけて連絡して来るのが、セージという男性だったようにも思います。
あの時から?
それであればなぜ、その後、やっぱり寂しかった、貴方が大切だと気づいたと泣きついた私に「結婚しようか」などと言ってくれたのだろう。確かにプロポーズはセージからだった。けれど、どことなく、何か、それまでの彼とそれ以降の彼との態度には、違いがあるようにも感じました。
「…さん。森さん!」
暗闇から自分の名前を呼ばれて、ミキはビクッと体を硬らせてカフェの扉の方に目を凝らしました。するとそこには、仕事上がりで立ち寄ってくれたのでしょう。かりゆし姿の玉那覇さん、このカフェの持ち主の息子さんが立っていました。
「また、ぼんやりされていましたね。あまり考えすぎてはいけませんよ、鷲見さんも言っていたでしょう。」
鷲見さんというのは、ミキの元上司です。二人とも、ミキが夫から別れを切り出されたというエピソードを知っており、必要以上に心配してくれていました。特に玉那覇さんは、離婚経験があるということで「わかりますよ。僕もふられた方ですから。」と何度も笑顔を分けてくれました。その度にミキは、「でも、まだ離婚してないですから。」と、強がった笑顔を見せながら立場が違うことを主張していました。
まだ、離婚届にサインはしていない。けれども離婚を切り出され、今は別居中という微妙な期間が、もう半年も続いています。もしかしたらキッパリと離婚をした方が、こうして悩まずに次に進めるのかもしれない。そんなことを思うこともありましたが、全てを投げ打って選んだはずの相手の心変わりを、そう簡単に受け入れられるはずがありませんでした。
別れを切り出された理由は、もう前のように愛せなくなったということでした。その理由は?と聞くと、口を閉ざすセージを見て、あぁこれは、他に好きな人ができたのかな、とか、自分の何が嫌われる原因を作ったのだろうとか、勘ぐることしかできないのです。
それだけでもはっきりさせたい、と思うのですが、確信となるような浮気のそぶりや他の女性の存在などは見つけられないのです。
「夜は、バーにでも、バイトに行きますか?」
再び黙って考え込むミキに、玉那覇さんがある提案をしました。森さんは仕事をしていたら元気だから。と、以前勤めていたホテルにあるラウンジでバイトをしてはどうかというのです。玉那覇さんの経営する会社は、そういう店に高級な食材を卸しています。「人手不足みたいなんで。」と、先ほど聞いたばかりのような顔でニヤリと笑って言いました。
その誘いが、良かったのかどうか、今となってはわかりませんが、確かに考えすぎる時間を減らした方が良いと自分でも判断したミキは、翌週から玉那覇に紹介されたバーで働くことになりました。
カフェの営業を昼からにして、バーで23時頃まで働く。労働時間は変わりませんが、夜にひとりになる時間が少なくなることは、一定の効果があるように彼女自身も実感していました。お店に納品にきたついでに顔を見せる玉那覇さんに「おかげさまで」と見せる笑顔は、明らかに以前よりも明るくなっていたのです。
そんな時でした。ミキがいるそのバーに、セージが知らない女性を連れて入ってきたのです。暗く広い店内で、彼はまだミキに気づいていません。
血が逆流するような感覚に立ちくらみを覚えながら、バイトの男の子に接客をパスすると思わず柱の影に隠れるようにして立ち竦みました。
このままここにいては、自分が傷つく。そう脳内で警報がなっているのに、足がその場に根を張ったように、どうしても動くことができません。聞きたくないのに聞こえてくる、そんな二人の会話を聞いているうちに、ミキは「ん?」と違和感を感じました。
男女が二人でバーに入ってくるので、てっきり甘い会話が繰り広げられるのだとばかり思っていましたが、どうやらそうではありません。
女性の声のトーンは、甘さよりも少し困惑するような様子で、「いまさら、だと思う。」という言葉が、妙にはっきりと聞こえました。そして「今の私には、彼氏がいるから。ごめん、仕事でこっちにくること、連絡すべきじゃなかった。」と、女性がセージに向かっていうのです。
前後の会話をつなげると、どうやら、二人は以前恋人だったか、その手前だったかという関係のようです。そして、数年前に再会した。その時は「お互い、別の相手もいたし。」と言っているのを聞くと、おそらくミキと付き合っている時のことのようです。
「それに貴方、昔私が”やっぱり貴方のことが好き”って告白した時に、”あの時は好きだったけど今は”とかそういうこと言って、私のこと振ったわよね。それで、沖縄にきたんでしょ。」
セージが、ミキには聞き取れない声で何かを言った時、女性が少し口調を強めてそんな風に話しました。セージが沖縄に来る前の相手?と思うと、もう10年以上も前のことなのかもしれません。
状況を頭の中で組み立てながら、ミキは自分が徐々に冷静になっていくのを感じました。10年以上前、まだ20歳そこそこだった頃の恋を、40歳近くにもなった男がいまだに蒸し返すような会話をしているということ?
その時、セージが少し大きな声でこう言いました。
「あの時は、自信がなかったんだ。自分は何も成功していなかった。でも今は、ここで、サーフィンの仕事を軌道に乗せて。今なら君の彼より、君を幸せにできるって…。」
そこまで聞いて、ミキはスッと心が冷めていくのを感じました。この人は、何を言っているのだろう。
「セージさん、貴方、何を言っているの?」
ミキの心が漏れてしまったかと思うくらい、同じタイミングで、その女性が彼の言葉を遮りそう言いました。
「2年前、結婚したって、連絡くれたよね。その時完全に男女の関係ではなくなったと、私は思ったのよ。だから”知り合いとして”連絡もしたの。それなのに。
貴方、言っていることと、やっていることが、チグハグよ。」
そうだ。言っていることと、やっていることがチグハグだ。ミキはまるでその女性にシンクロしているかのように、同じ言葉を心の中で繰り返しました。
少しの沈黙が流れ、ミキからは見えませんが、その沈黙から、セージが言葉につまり項垂れている姿が想像できます。
「私も、貴方のこと、好きだったよ。でも、あの時、振られてから、何度も貴方のことを思い出す事はあったけど、私たちのタイミングが合う事は一度もなかった。縁がなかったって事だと思う。ごめんなさい。」
女性はそういうと席を立ち、バーから颯爽と出て行ってしまいました。結局女性の姿は、後ろ姿しか見えませんでしたが、ミキは妙に、その彼女の様子に親近感を覚えました。
私たちのタイミングは、合う事はなかった。
その言葉が、自分とセージにも当てはまるような気がして、スッと腹の中に落ちてきます。そして、そう思えてしまうと、柱の向こうにいるセージという男性が、妙に情けなく感じます。
自分の何がいけなかったのかと、色々悩んだりもしましたが、結局、何かいけないことがあったのだとしても、こうなってしまったのは”お互いの”タイミングが合わないということに尽きるのかもしれない。
そこから、どうやって店から出たのか、セージはいつまで席で項垂れていたのか、ミキはよく覚えていません。ただ、なんとなく、今日は早退しますということをマスターに告げたことは覚えています。
そうして、ホテルのプライベートビーチの方へ歩いているうちに、涙が止まらず誰にも見られないようにと暗い海のそばでしばらくたたずんでいました。
2023年8月25日。ミキはようやく前を向く決心をしました。
セージがその後、どうしたかは知りません。離婚届は提出されたようですが、弁護士を介したやりとりだけで終わりました。
玉那覇さんは、バツイチ仲間になったことを心から祝福してくれ、白い一軒家の経営権と所有権を全てミキに譲渡してくれました。「東京に戻らないで良いの?」と、契約書にサインする直前に聞いてきましたが、ミキはなんとなく、今ある居場所で、良いような気がしてここに残ることを選びました。
「元々、好きな人とか彼氏とか関係なく、仕事のあるところを、転々としてましたから。今ここに仕事があるので、私はここにいます。」
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