7月17日のお話
これは私たちが暮らす世界とは少し違う世界のお話です。風景や生き物、人間と呼ばれる種族がいることなど、その世界は私たちの世界ととてもよく似ていますが、彼らは何度かの突然変異と文明の入れ替えを経た長い歴史を持っています。
今は一部の人が魔法を使い、多くの人が科学技術を使う時代。人間の居住区にだけ都会の街並みと自然が共存し、その他の大地は荒れ果てている。そんな世界のお話です。
4201年7月17日
「カリノさんのことをもっと聞かせてください。」
その頃、世界はまだ、好景気に沸いていました。新都心で翌年に控える文化祭店の準備は佳境を迎え、確実に跳ね上がる経済効果に誰もが投資を惜しまず、華やかな都会のあかりは富めるものにさらなる富を与え、貧しいものにも一縷の夢を見せていた。そんな頃のお話です。
政治家や貴族、富裕層の「御用聞き」サービスを生業にするカリノは、顧客としている権力者たちの依頼に最上の対応ができるように、日々、様々な「優秀な人」をスカウトすることも重要な仕事でした。業界で噂になっている優秀な人を口説いては「商品」としてカタログへストックする。それを積み重ねることで顧客の信頼を勝ち取り続けていたのです。
ヒイズという仕立て屋を口説きに行ったのも、そんなスカウト作業の一部でした。「顧客満足度だけが異常に高いが、癖のある仕立て屋」それが彼をしめす評価の言葉でした。カリノは「異常に高い」「癖のある」という修飾語が大好物です。コーディネーターとしてバランスをとることを得意とするカリノにとって、突き抜けた才能を持て余し、癖があり普通では付き合いにくい優秀人材こそ、仲介のし甲斐があるのです。どうしても彼を商品に引き込みたい。そう意気込んで口説きはじめて4ヶ月がたったころ、「あなたのために、私はなんでもしますから。」と契約を切り出した彼女に、ヒイズから返ってきた言葉が、冒頭のそれでした。
「私の…?え、もっと?」
癖のある人物の扱いに慣れているはずのカリノも、この男、ヒイズには苦戦していました。あらゆる手を尽くしても、彼は、相棒になる人のことを理解するのが先だと言い張り、契約までなかなかたどり着かないのです。
出会ってから4ヶ月の間、週に2度は彼のもとに顔を出し、しつこくない程度に会話をして関係性を築こうとするなかで、もう随分とカリノはヒイズに自己開示をしてきたつもりでした。今の顧客状況やビジネスモデル、仕事のスタイルや休日の過ごし方、趣味や特技、持っているネットワーク、今後のビジョン。彼氏は特にいないということやペットは小動物を飼っていることなど。これ以上、何を話せというのか。
黙り込んでしまったカリノに向かって、ヒイズは穏やかに言いました。
「僕は、今のカリノさんはとても魅力的な人だと思います。」
肯定的な言葉に、カリノの表情は少し明るくなります。だったら、契約してくれるのですか?そう口から出かかったところで、彼に「でもまだ契約は出来ない」と否定されてうなだれました。
「魅力的なカリノさんが、どうしてそうも魅力的に育ってこられたのか。そこを、知りたい。」
まっすぐに瞳をみながら、ヒイズはカリノにそう言いました。ヒイズの容姿は男らしくも甘いマスクで悪いものではありません。そんな彼に見つめながら、魅力的だと連呼されるこの言葉は、聞く人によっては、まるで愛の告白のような温かみのある言葉でしょう。しかし、彼の目の前にいるカリノにとってはそうではありませんでした。
怯みながらも、カリノもこういう交渉においてはプロです。そこからまた数日にわたり、ヒイズを訪ねては、自分の辿った人生や経験、原点になっている考え方や大切にしている出来事を問われるままに話し続けました。
そうしてさらに2ヶ月が過ぎた7月も半ばのこの日。ヒイズが契約書にサインをするということで、カリノはヒイズのオフィスに呼び出されました。口説き始めてから実に半年。こんなにてこずった相手ははじめてです。ようやくという達成感と、この2ヶ月間対話したなかで、何が彼に契約を決断させたのかが気になるという気持ちを押さえきれず、彼女は駆け込むようにヒイズのもとに到着しました。
何度もきたことのあるオフィスでしたが、今日は、入室した途端に大きな違和感を感じました。いつも座りながら話していた応接ソファーが撤去され、そこに、大きな鏡がたてられていました。しかもその鏡は、少しくもっており、前に立ったカリノの全身の輪郭と服の色を映す程度です。
「これは…?」
戸惑うカリノのもとに、部屋の奥からヒイズがゆっくりと歩み寄ってきました。「カリノさん、いきなり入ってくるから驚くことになるんですよ。ノックしてくださったら、説明しながらお見せできたのに。」などと、苦笑しながら指摘しました。
「これは、僕らコトダマ派の魔法使いがつかう魔法道具の一つです。」
ヒイズは仕立て屋であると同時に、言葉を巧みに操って人の「心」にアプローチするコトダマ派という学派の魔法使いでもありました。この世界で使われている魔法の中でも、マイナーな学派にあたるコトダマ派ですが、カリノは「使い方によっては」ビジネスに活用できる能力だと考えていました。現に、色々と話をきいていくと、彼の仕立ての満足度が高い理由も、この魔法を使いながら顧客の希望をきくところにあるらしいのです。そういう特殊な能力を操る人物だったことも、カリノが彼に執心した要因でもあり、彼の問や求めに対話で応じた理由でもありました。郷に入れば郷に従え、です。対話に応じたほうが相手に心を開いてもらえるだろうと思いはしましたが、まさか、自分に向けて魔法道具を出す=魔法をかけてきているとは気づきませんでした。そのため、彼女は目の前の鏡が魔法道具だと聞くと、見るからに狼狽しました。
「申し訳ありません。普段僕は、こういう騙し討ちみたいなことはしません。でも、カリノさんは言いましたよね。私はなんでもするから、と。」
ヒイズはそう前置きをすると、自分が自分のスタンスとして、誰かの指示を受けて動くようなことはこれまでしてこなかったこと、そういう依頼は基本的に断っていたことなどを説明しました。そのことは、カリノはすでに初対面の時に言われたことでした。しかしその場でカリノは、自分にとって都合の悪いその事実を聞かなかったことのように扱い、どうすれば契約をしてくれるのかと迫り続けました。
「『自分の根っこをぐらつかせずに他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである(※)』と、古代の学者も言っています。カリノさんは、まずあなた自身の根底をゆする覚悟をみせて欲しいと思っています。僕の”スタンス”を変えようというなら。」
ヒイズの表情は笑顔のままですが、カリノに向けられたその言葉には、これまで彼から感じたことのないほどの凄みがあり、カリノは思わず姿勢をただして向き直りました。そんなカリノに、ヒイズはにこりと微笑みます。
「今日僕は、カリノさんと契約をするつもりです。あなたが教えてくれた過去や今のあなたの考え、最後まで聞かせていただいて、本心で素敵だと思ったからです。でもその前に、カリノさんには自分自身をもっと見つめて欲しい。僕と仕事をするなら必要なことです。」
そこまでいうと、ヒイズは鏡に手を当てて「僕との契約を、望みますか?」とゆっくりした口調で問い、カリノの返答を促すように沈黙しました。
カリノは彼のしぐさをみて、この鏡がどういう魔法道具なのかを理解しました。これは、コトダマ派の魔法使いがその魔法の基礎として扱うもので、映ったものの「今の本当の姿」を映すという鏡です。実物を見たのははじめてですが、コトダマ派の魔法使いを知るために勉強したものの中に、この鏡の魔法についても記述がありました。
人間は、大抵の場合、いつも自分自身のことを正確に把握できていません。過小評価したり、過大評価したり、歪んでいたり、勘違いしていたり。周囲の環境や交流している人物の影響で、それはいつも不正確になりがちです。それを、補正してくれるのがコトダマ派の鏡の魔法です。魔法使いとの対話で抜き取られた過去の「言霊」をこの鏡に吹き込むと、この鏡はその人物の本当の姿を映します。それは内面が大きく表出し、普段の外見とは異なる様子で映ることが多いのだと、解説されていました。
「契約を望むといえば、私が、そこに映るんですね。」
確認するように問うカリノの言葉に、迷いはありませんでしたが、ヒイズは儀式のように、「そうです。」とうなずいたあと、「どうしますか?」と再度聞きます。
「私は、契約をしてもらうために、半年間、あなたと対話しました。契約を望む以外、ありません。」
その言葉が終わった瞬間、ヒイズの手から鏡に光が伝わり、曇っていた鏡が一気にクリアになりました。
カリノは、鏡に映る「本当の自分」としばらく無言で対峙したあと、(時間にすると3分ほどでしたが、二人のいるこの空間に流れた沈黙は、これまで半年の対話で重ねた時間よりも長く思えるほどの時間した)鏡にむかってにっこりと微笑み、そしてヒイズの方に向き直ると、手元の端末から契約書を呼び出し彼のもとに電子サインの依頼を送信しました。
サインを終えて、鏡も仕舞ったところで、ヒイズはカリノに聞きました。
「納得されているようにも、見えましたが、カリノさん。」
鏡の中の自分は、いかがでしたか?その問いに、カリノはふふっと笑い、だいたい予想していた感じでしたから。と答えます。
「今思えば、半年ありましたからね。ヒイズさんと対話させていただいた時間が。あなたがかけてくださったその時間は、私が自分自身を見つめ直すのに、必要で、十分な時間だった。」
そういうことでしょ?と首を傾げながらいうカリノに、ヒイズは満足そうにうなづいて、そういうことです、と言いました。
「魔法道具の鏡は形式的な、答え合わせです。」それが、コトダマ派の魔法使いが、他の魔法使いと違うところです。
その日から、カリノはヒイズを仕立て屋として顧客に紹介してまわりました。そこに絶大な自信と信頼があったのはいうまでもありません。二人のタッグは一大ビジネスになりそうな兆しをみせますが、このとき二人は、まだこの時は知りませんでした。
世界がこのあと、ヒイズのコトダマ派の魔法使いの能力を渇望する事態に陥るという未来を。
※ 自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのは甘すぎる。 出典:河合隼雄『こころの処方箋』