見出し画像

7月22日のお話

「前菜盛り合わせと、ビールください。」

夜の7時でもまだうす明るいのが夏の到来を感じさせる7月22日。まだ梅雨が開けていない証拠に、今日は何度か雨がぱらつき、夕方は一瞬だけ土砂降りになっていました。

うっかり洗濯物をベランダに出していた”かなめ”は、オンラインミーティング中にもかかわらず「あっ」と大きな声を出して洗濯物を取り込みに走りました。在宅勤務の良さなのか悪さなのか。こういう突然の雨にも対応してしまうのが人間のさがです。同僚に「生活感ですね」なんて苦笑されながら、奥さんがやってくれるのに任せている妻帯者はいいわねっと心の中で毒づいてしまいました。そんな風に仕事を終えたころには、雨もあがり、少し涼しい風が吹いています。明日からは世間は4連休です。特に予定のないかなめにとっては、何の変哲もない今日の夜ですが、なんとなく、変哲もないことが悔しいような気がして、食事は外で食べようと家から出てきたのでした。

立ち寄ったのは、野菜やハーブを中心とした料理を出してくれる、カフェ&バーで「KUKU」という小枝でつくった看板が可愛らしい、かなめお気に入りの店でした。

店内は、8名ほどのカウンター席と2名がけのテーブル席が3つというこじんまりした空間で、客席のスペースよりも、間に飾られた植物のせいで温室にでも迷い込んだような場所です。

そういう空気なので、男性客はほぼいなく、かなめのような「おひとりさま女子」が多いのも、来やすさになっています。家の近所にできたのも幸いでした。

運ばれてきた前菜の盛り合わせは、あきらかに一人分ではない量ですが、かなめにはこれくらいが良いのです。前菜だけを食べたい、歳のせいか、野菜中心の食生活の方が体の調子も良いような気がして、外食の時もいつもそんなことを考えていました。そんなニーズにこたえてくれるのも、この店のよいところです。

少し蒸し暑い夏の夜、蜜を回避するためと開け放たれた窓から湿った生温い風が入り、店内のクーラーの冷たい風と混ざり合います。その混ざり合うさなかに、自分が存在しているというのも心地よいものです。これはこれで、ビールを美味しく感じさせる。かなめはそんなことをぼんやりと考えていました。

それにしても。

この店の客は、基本的におひとりさま女子が多いようです。いつ来ても、自分の他にもおひとりさまがいて、むしろ誰かと来ている女子は1組かその程度でした。世の中は、いつの間にこういうおひとりさま女子がスタンダードになったのだろう、と勘違いしてしまうほどのおひとりさま率です。ただ、場所によってはそれは大きな勘違いで、世の中はいまだに、素敵なレストランにはカップルで、賑やかなカフェには女友達と、という常識は息づいています。

それでも、選択肢としては自由になったものだとは思います。かなめが知る限りでも、彼女が成人したての17年前なんかは、おひとりさまという言葉が流行るほど、おひとりさまが珍しがられた時代でした。そして、自分の母親世代では、専業主婦じゃないというだけで哀れみの目で見られたようなこともありました。(女性は家にいるものなのに、働きに出ないといけないなんて!という風潮です。特にかなめの両親が住む、中部地区ではその傾向が強いようでした)それに比べれば。かなめが結婚せずに37歳まで生きていても、一人暮らしで近所に一人で食事に出かけても、誰も何もいわないくらいに、それらは選択の自由として当たり前の世の中になっています。

自由か。

ふと、窓の方をみると、前の道を通り過ぎた、それなりにふくよかな女性が視界に入りました。ずいぶん太っている。そして、手にはコンビニの唐揚げのようなものを持ち、歩きながら、口に運んでいます。

自由ね。

マナーと自由は別軸だと思いつつも、飽食を極めたこの時代、誰が、何を、どのくらい食べようと、それは個々人の自由でもあります。だから別に、わかりやすく肥満の人が、肥満の原因と連想するようなものを食べていても、構わないのです。コロナ禍という非常事態ではありますが、戦時中のように質素倹約を奨励されているわけではありません。

自由だわ。

色々な”自由”に思いをはせているうちに、かなめは、ふと、喜ばしいはずの自由が、実は、人を不幸にする可能性を高めているのかもしれないという予感めいた考えにたどり着きました。

これまでは、〇〇はこうあるべき、という模範を世間が作ってくれていた時代だったのかもしれません。あるいは社会システムがそういうパターンを生み出していたとも考えられるでしょう。人々は、その模範やパターンに沿っていれば「大きな間違え」や「深刻な迷い」に陥ることは回避できたのです。

かなめが昔、まだ10代だった頃に聞いて、背筋がぞっとした言葉に、こんな言葉があります。

「トヨタ自動車に勤める夫がいて、市内にマイホームをたてる。子供は二人で、二人とも有名大学に行くために小学校から塾に通わせる経済的な余裕もある。そういう理想的な家族と同じ、うちの家は、本当に、幸せなのよ。」

これは、友人の母親が、母親同士の会話で言っていたことですが、最後のくだりを耳にした若きかなめ嬢は、振り返るほど驚き、発言した女性のなんともいえない笑顔を見た瞬間に、自分はこの街をでよう、と心に決めたのでした。

理想的な家族と同じだからうちも幸せだ、なんて、何かがおかしい。

若い頃はそんなことを思ったのです。しかし、その女性と、おそらく同じくらいの年齢になった今なら、そう言いたくなる気持ちは少なくとも理解できるようになりました。「何を幸せとおもうか」すら、自分で決めなければならない今の世の中において、あなたはこうなったら幸せですと指し示してくれるようなパターンがあれば、それはそれで心強いのかもしれません。

現に、かなめ自身、その時語られた要素を何一つ満たしていませんが、幸せだと思えは大変幸せですが、ふとした瞬間に、本当にこれが幸せと言えるのかと疑問におもうこともあります。

店内を見渡してみて、おひとりさま仲間の女性たちの横顔をこっそり眺めてみても、スマホを無表情にみている人、美術雑誌を眺めている人、ハイペースでおかわりを頼んでいた真っ赤な酔っ払い顔の人。みんなそれぞれ、本当に今日一人で食事をすることが幸せかと問われても、一瞬なにか戸惑うような表情になるのではないでしょうか。

何をすべきか、何を幸せだと思えるか、自分で決められない人にとって、きっと今の世の中のように自由が多い時代は困難な時代なのかもしれません。そうおもうからこそ、かなめは、自分が自由を享受し続けられるよう、いつも自分はどうなのかという内省の繰り返しと、強い意思を持たねばという強迫観念との戦いを潜り抜けているのです。

この戦いは、自分の心の中の怪物と対峙し戦うようなもので、油断するといっきに追い詰められてしまうから厄介です。油断するというのは、「これで良い」と安心してしまうことです。そのとたんに、自分の心と対峙する姿勢がくずれ、目を離した隙にその怪物は大きく膨れ上がります。だから、自由を選び、それを肯定し、維持するのはものすごく大変なことなのです。

そういう風に痛感する経験を経て、かなめはようやく、あの時の女性のことを理解できるようになりました。彼女は、こういう戦いの場に出るよりも、戦わずに怪物を飼いならすことを選んだのです。飼いならすのも容易なことではないだろうと想像できますので、いずれの選択も、どちらが良いかなど判断するのも愚かなこと。そういう風に、ようやく思えるようになりました。

オードブルとビールがそこを尽きた頃、そんな風に思考を整理していたかなめの耳に、カウンターに座っている女性と話している、この店の女店主の声がきこえてきました。

「まぁね、戦うのに疲れた時は、ちょっとその辺で寝転がって、死体のフリでもしてみたらいいのよ。そうすると意外に、敵はあなたを見逃してしまうものよ。そうしてぼんやり休憩してみたら、あなたはきっとこれまでとは違う戦場の見方が、できるかもしれないわよ。」

何の話?そんな風に興味がわきましたが、どうやら話はそれで一区切りついてしまったようで、女主人はカウンターの奥へ、料理をしに背を向けてしまいました。

女主人と話していた女性は、背中しか見えませんが、お洒落なこだわりのあるファッションからは、ファッション業界で働く女性のような雰囲気が伝わります。確か前にもこういう雰囲気の女性は見かけたことがあるので、常連でしょう。彼女は華奢な方を震わせて、涙を流しているようにも見えます。

戦場で、寝転がるか。

まぁ、それも自由よね。

そう考えって、次はカウンターに座ってみよう。と考えながら、お会計をおねがいします、と声を上げて席を立ちました。

2020年7月22日 かなめが店を出るとき、また雨が降り出していました。彼女は傘を持っていませんでしたが、気温も暖かいし、ちょっと濡れながら帰ってみるのも良いかなと、そのまま店を飛び出しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?