8月26日のお話
ミキがお店をやめてから、3回目の夏も終わろうとしている2023年8月26日。立川という街は変わりましたが、このお店に来ている常連客も、接客をしている女の子たちも、顔ぶれはあまり変わりません。こういう街に長くある夜の店は、地域密着です。ママも女の子もお客さんも、一緒に歳をとり、同じ時間を長く共有するのが常でした。
そんな雰囲気の店だったということもあり、店をやめたはずのミキが、何食わぬ顔でカウンターの中に立つことも受け入れられてきたのでしょう。
「仕事としては、辞めてますから。」
そう言って報酬は受け取りませんでしたが、昼の仕事が落ち着いている時期などは、こうしてふらっと遊びにきては店を手伝っていました。別に店が人手に困っているとか、そういう状況ではありませんし、求められているわけでもありません。ただ単に、彼女は遊びに来たついでに、ちょっといろいろやっているのだというのです。
ミキはミキなりに、自分が15年以上生きてきた夜の街を”母校みたいな感じ。たまに帰る場所”と位置付けているようでした。
両親を失い、今は事実上帰る場所を失った彼女にとって、それがキャバクラであっても「あら、おかえり」っと言ってくれる人のいるここは、大切な場所なのでした。
ミキが店を辞めたきっかけは、”昼の仕事”のことを知ったことでした。
これまで、20代前半からずっと夜の街の仕事しか知らなかったミキにとって、昼の仕事は、お客さんが口をこぼす時のエピソードや、悩みを話す時の舞台のような存在でした。
会社組織や、人間関係が、どんなふうに入り組み人の心を苦しめるのか、どういう力学で出世が決まるのか、など、そういう環境の情報は普通の同い年の女性よりも明らかに多く知っています。しかし、そういう情報だけでは、昼の仕事に就いてみようという思考にはなれません。
ミキの年齢を聞いて、余計な心配をするお客さんに「そろそろ足を洗って昼の仕事した方がいいんじゃないか」と言われた時など、彼女は決まって少し困った顔をすると「昼の仕事をしている自分がイメージできひんのよね。」と返していました。
そうです。彼女は”昼の仕事のうち、何が自分に出来るのか。したいのか”ということを考えるための情報と経験が皆無だったのです。
ミキだけではありません。夜の仕事しか経験したことのない女の子たちはだいたいがそうです。昼の仕事しか経験したことのない女性が、夜の仕事を自分のキャリアの選択肢に入れないのと同じで。
そんなミキの人生を変えたのは、ある人との出会いがきっかけにありました。お店に客ではありません。近所に住んでいるという、少し年齢が上の自称魔法使いという変わった男でした。その人とは、猫のタマを通じて話をするようになったのですが、そのエピソードはまた別でお話するとして。
男はタマのことを「エル」とよび、たまに餌を与えている人物です。変わっているのが、その男が街に出没する時間でした。その時間は、深夜2時の時もあれば、深夜4時の時もあります。いずれにしても、24時間営業のスポーツジムに向かっていたり帰り際だったりでミキのいたお店の近くの公園で、タマ(エル)と一緒にいることが多かったのです。
その神出鬼没ぶりに、ある時ミキが思わず声をかけました。そして、タマの話をするうちに知り合いになり、ずっと気になっていたことを聞きました。
「あの、何のお仕事をされてはるんですか。」
その問いに対する回答が”魔法使いみたいな感じ”だったのです。そしてその後に続けられた言葉が、ミキの心に響きました。
「何の仕事かって聞かれて、○○ですって答えられる時代はもう終わりましたよ。」
これからは、会社に勤めていても会社員と名乗るだけでは不十分で、誰に対してどんなことが提供できる人物かというところまで自己紹介する必要がある世の中になります。そう預言者のように語ると、彼は姿勢を正して改まったような様子になると、自分のことをこう言いました。僕は、そういう時代が到来する前に、できるだけ多くの人が”自分は誰に対してどんなことを提供できる人物か”をスラスラと話せるようにしないといけないんです。
「つまり、僕は、そういうことが言えない人に対して、言えるようになるためにどうすれば良いかを示すことができる人物なんです。」
タイミングよく相槌を打つように、タマが「ミャア」と鳴いたことで、ミキは”もっともらしいことを言われたようだけど”「わからない」と言えず、煙に巻かれたような気持ちで「はぁ」とだけ答えました。
その日はそんな様子で終わりました。
しかし、そこで男から植え付けられた言葉は、明らかにミキの心の中で根を張り芽吹き、ある考えをどんどん大きくさせていきました。
私は、誰に対して、何ができる人物?
それから、ミキは仕事中、ふと手を止めては考え流ようになりました。
お店に立ってお客さんと話をする時、お酒を注ぐ時、店の女の子のフォローをする時、ママの代わりに伝票を確認する時。
私は、今、お客さんに対してお客さんの心の疲れをほぐしてあげる時間を提供している。
私は今、店の女の子やママに対して彼女たちが少しでも早く帰宅できるように、やり方を工夫したり新しいパソコンソフトを導入したりして、やり方の改善をする方法を提供している。
そして仕舞いには常連客にもその質問を投げかけるようになりました。
「ねぇ。専務は、お昼間は、誰に対して、どんなことを提供しとるん?」
ミキにそう問われると、絶妙な関西弁で柔らかくなっていることもあり、多くのお客さんは「失礼な」と怒ったりはせず(本当は失礼なことを聞いているのですが)一瞬キョトンとすると、うーんと首をひねりながら、初めてそんなことを言わされたというような表情で不器用に答えるのでした。
そういうお客さんたちの答えを聞いていくうちに、ミキはふと、あることに気づきました。
あの大きな会社の専務も、あの不動産屋さんの社長も、丸の内の会社で経理部長をやっているあの人も、回答は意外と似ているのです。
誰かのために、何かをしている。その何かがそれぞれの人の得意なことだったり、やらされていることだったりはしますが、こうシンプルに考えていくと、意外と昼の仕事も夜の仕事も、仕事のやり方には共通点が多いような気がしてきました。
そうなってくると、ミキの興味は「自分が昼の仕事についたら何ができそうか」ということに変化していきます。そうしてまた常連のお客さんに質問を投げかけ続けているうちに、不思議なことが起こりました。
「ねえ、ミキちゃん、知り合いの会社が人を募集しているんだけど、今度、そこの面接受けてみない?週に1日だけだから。」
「ミキちゃん、よかったらうちの会社手伝えない?産休で一人休んじゃってさ。知識はそんなにいらないんだけど、女の園で大変だけど、ミキちゃんは得意そうなママみたいな人ばかりだよ」
「ミキちゃん、若い子ばかりで収集つかなくなったうちのバイトの子たちをみてもらえないかな。一応会員制ジムだから、会員の年配者の扱いが雑だとクレームきちゃうんだよね。」
常連のお客さんたちが、次々とミキにやって欲しいことを持ち込むようになったのです。
「時間的にいけそうなら、ちょっとやらせてもらってみたら?」
というママの勧めもあって、「流行りの副業やわ」とドキドキしながら、一つ一つの依頼に丁寧に向き合っていきました。
そうしているうちに、一年が過ぎました。
ミキは、以前より自分の”昼の仕事”についての理解が進んでいることを実感していました。そして、少し自分の未来に挑戦してみたいという気持ちになり、そういう仕事を紹介してくれるという会社のコンサルタントさんに会うことになりました。
そこで会ったコンサルタントさんが、なんとなく、タマ(エル)と一緒にいた自称魔法使いに似ているような気がしたのですが、服装も、雰囲気も違い(とても柔和な印象で別人のよう!)相手も自分に対して何も反応しなかったので、それ以上追及はできませんでした。
そんな自称魔法使いに似ているコンサルタントさんのおかげで、ミキは人生で初めて夜から昼の仕事に「転職」をすることになりました。
なかなかできることじゃない、と、お店の常連さんや女の子たちは目を見張りました。ミキもどうして自分の思考がこんなに変化したのか、自分自身が一番不思議だと話しながら、魔法にでもかけられたのかな。とどこかでぼんやりと考えていました。
そんなミキの変化をその時にみていない、新しい常連さんなどに、女の子たちがミキの話をすると、そういう人たちは大体同じ反応で、最初は驚き、次第に納得したようなしたり顔でこう言うのです。
「ハングリー精神がすごいんだね。こういう夜の仕事じゃなくて、昼の仕事をして幸せになりたい!そう思うからこそ、できたんだよ。すごいね。」
そういう客を見かけると、ミキは「ありがとう。」と笑顔で近寄りながら、「でもこの店におる時も、私は幸せやったんよ。」と、そっと耳打ちするのです。そんな強がって、というお客さんもいますが、「え?」と何かを察知する人もいます。
そのやりとりを見慣れた女の子たちは、キョトンとしてミキを振り返るお客さんの顔を、ミキから自分の方にグイッと向き直させると、決まり文句のようにこう言いました。
「ミキさんの決め台詞、教えてあげようか。」
その代わり、もう一本、ボトル入れてくれる?
ちゃっかりと営業されるのですが、しかしそう言われたら続きが聴きたくてついボトルを入れてしまうのが人間の性です。このやりとりで、女の子たちは何度も点数を稼ぎ、その洗礼を受けた常連客たちは新しい鴨になった客に親近感を覚えながら笑っています。
ボトルを開けながら、女の子たちは呪文のように繰り返してすっかり覚えた”続き”を唱えます。
「現状を幸せだと思うことと、現状に満足することは違うのよ。
現状に満足せず、将来に対して希望を持って努力している時間も「幸せ」だと思えたら、きっと貴方の人生はこれまで以上に幸せになれるはず。」
それを聞いて、おー。とか、ほー。とか、ヘェ。とか言っているお客さんと、決め台詞を言った後にキャッキャと笑って盛り上がる女の子たちを、カウンターの中から遠目にみながら、ミキは「そろそろ著作料いただいた方がいいかしら。」と呟きながら思いました。
まあ、居場所代で相殺、とか、ママには言われそうだけど。
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