7月27日のお話
これは私たちが暮らす世界とは少し違う世界のお話です。風景や生き物、人間と呼ばれる種族がいることなど、その世界は私たちの世界ととてもよく似ていますが、彼らは何度かの突然変異と文明の入れ替えを経た長い歴史を持っています。
今は一部の人が魔法を使い、多くの人が科学技術を使う時代。人間の居住区にだけ都会の街並みと自然が共存し、その他の大地は荒れ果てている。そんな世界のお話です。
4202年7月27日
太陽が昇らなかった日を発端に増え続ける不登光症候群。
医科学的には全く問題はないのに、さまざまな不調を訴え、しだいに生きることが困難になってしまう恐ろしいこの病は、ウイルスや細菌が見つかるわけではないので治療薬も作られないまま、少しずつ感染者を増やし、多くの人の心をむしばみはじめました。中には、本当に罹患していなくても「疑いがある」というだけでナーバスになってしまう人もいます。カリノの後輩も、先日そのような状況で彼女に泣きついてきたのでした。
そんな、閉塞感の漂う世界の中で、つい先週まで他人の世話を焼いていたカリノに異変が起こりました。今週に入り、4日ほど前から心が闇の中に閉じこもってしまったような息苦しさを覚え、自宅のベッドから起き上がれなくなってしまったのです。
最初の一日は「疲れかしら。」と、外出の予定を調整し、全て自宅でできる仕事に切り替えると布団の中で急ぎの対応だけをこなし、体を休めました。
熱もないし、すぐに治るだろう、少し疲れが出たのかもしれない。そう思っていたのですが、二日目も三日目も、心の息苦しさは重くなる一方で、いよいよ普段しない長期休暇を宣言すると1日のうちの大半を眠るように過ごしました。眠りたいわけではないのですが、眠らずにはいられないのです。
そして四日目。さらに気力の減退を感じたカリノは、昨日くらいから考えないようにしていた「不登光症候群に罹患した」という可能性が頭から離れなくなりました。心当たりはありません。それは突然やってきたような、まるで交通事故にでもあったようなあっけなさでした。
四日目の午後、食事もとる気になれないカリノは、この日何度目かの眠りに落ち、夢を見ました。それは、暗いビルとビルの隙間にうずくまっている夢でした。向こう側には暖かそうな光があるのに、その手前に流れる水の流れが行く手を阻みそちら側に行くことはできません。彼女が進むことの出来る方向はいずれも深い闇で、唯一外の明かりがうっすらと差し込むこの場所から、一歩も動けなくなてしまっているというものです。
そんな夢をみたものですから、目覚めた時、いよいよ彼女は恐ろしくなり、慌てて仕事相手のヒイズへ連絡を取りました。通信が繋がると、向こう側ではヒイズが呑気な声で応対します。
「カリノ?休暇じゃなかったの。」
僕も休暇を取ろうとして…と話すのを遮り、カリノは苦しそうな声で助けて欲しいと伝えました。苦しそうな声になってしまったのは不思議なことです。彼女自身、どこかが痛むわけでも辛いわけでもないのです。ただ、言葉を発しようとすると億劫で、今の自分の状況を伝えようとすると負けを認めたような悔しさがこみ上げて、でもこれ以上は耐えられないというすがるような思いも混じり、結果として苦しそうな声になってしまったというところでした。
そんなカリノの異変を認知したヒイズが、彼女の家にたどり着くまで、そんなに時間がかかりませんでした。自宅がそんなに離れているわけではありませんが、彼がこれまでのどんな仕事に駆けつけるよりも急いだことは明白です。カリノはそんな彼にきてくれてありがとう、と礼を伝えようとしたのですが、溢れるのは言葉ではなく涙ばかりで、こんな自分がいるものなのかと彼女自身が自分の状態に驚いていました。
「カリノ、どうした。」
いつもと全く様子の違うカリノを目の当たりにして、流石のヒイズも困惑の表情を浮かべています。そしてその表情は、カリノの行動を見れば見るほど険しく歪み、歯を食いしばるように何かをこらえるっと、万が一にと持ってきたコトダマの魔法道具を取り出しました。
今回は、一年前のような鏡ではありません。
温かく光る小さな炎が宿るランプと、可愛らしい白紙のノートと紫色の綺麗な装飾が施された魔法の鉛筆です。まずは落ち着いて。そういうとヒイズは揺れる炎をカリノの目の前にかざします。そのランプの熱が頬に微かに伝わるほどに近づいた時、その暖かさに反応したのか、カリノの涙がとまり目にいつもの輝きが戻ってきました。
「何も言わなくていいよ。この鉛筆とノートに、思いついたことを書いてみて。」
紙とペンというのは、古代文明の頃から心の治療に効果的なアイテムとして重宝されてきました。人類がペンをもたず、電子入力に置き換わってしまった時代もあったようですが、医療用としてこの技法は残り続けました。そして現代になり、コトダマ派の魔法使いによって特殊な魔法を施した道具となり心のわだかまりを解きほぐすための一つの手法として確立されました。
この魔法が効きやすい人もいれば、違う方法でアプローチした方が良い人もいます。カリノの場合は、ヒイズが彼女と1年間付き合う中でこれが良いと判断し使ったものです。
少し下を向いて考えるようにしていたカリノですが、鉛筆に導かれるように、ノートに言葉を綴っていきます。ゆっくりゆっくり、時系列が飛ぶのもお構いなしにかかれるため、ヒイズが彼女の書き出したことの全容を理解するためには、たっぷり2時間、彼女のその行為を見守らなければなりませんでした。
そこに記されたことによると、彼女がこうなってしまったきっかけは(本人も自覚はしていませんが)5日前にあった、彼女の「商品」の離脱が1日のうちに3件立て続いたことにあるようでした。
その出来事は、彼女自身が彼ら(商品ら)に対して、厳しい対応水準を彼女なりの基準で求め続けたことへの反発から起きたことだと、自覚しているようです。そして同様なことは、これまでも複数回繰り返されており、その度に、彼女は彼ら(商品ら)を見切ってきました。確かにカリノは、涼しい顔でそういうことをするので、業界の中でも一種恐れを持って距離を取る関係者も多いように感じています。
「カリノさんといると、疲れるから。」
彼女がその言葉をノートに綴った時、再び、大粒の涙が彼女の目から溢れ出しました。
ヒイズは「なるほど。」とため息をついて、再びランプを持ち上げると、やれやれと口に出しながら立ち上がりました。そして一言、呪文をとなえると、彼の周囲は、先ほどカリノが夢にみた暗いビルの合間に変わったのです。そして彼の前には、先ほど同様、座り込んで動けなくなっているカリノが、遠く外の明かりを眺めています。
「カリノ。」
そんなカリノに声をかけると、カリノはゆっくりとヒイズの方を振り返りました。ランプに照らされた彼女の顔は、涙に濡れています。
「明かりを見失ったら、僕が必ず持っている。だから、もう大丈夫。」
ヒイズはいつになく優しい声で、そう彼女に語りかけました。
それから一晩、彼女は眠り続けました。そして翌朝目覚めた時には、ヒイズはもちろん帰宅したあとでした。昨日と何ら変わりのない朝ですが、彼女が体を起こすと、昨日まで感じていた重たい心の闇は消え去っています。
「あれ、起き上がれる。」
思わず独り言を呟いて、その声がクリアなこと、声を出すのが苦しくなかったことに、彼女は頭の上から足の先までほっとしました。
コーヒーが飲みたくなり、キッチンでお気に入りのコーヒーを時間をかけてドリップしながら香りが意識をはっきりさせた頃、カリノははっとして慌ててヒイズに連絡をとりました。
のんびり朝を楽しんでいる場合ではありません。まずはヒイズに対して昨日の失態の謝罪、お礼、そして、昨日までの自分は何だったのかということの確認が必要です。
連絡に応対したヒイズは、そっけない態度ながらも、解説は丁寧でした。
昨日は驚いたよ、と感想を述べながら、「控えめに判断しても、カリノは不登光症候群にかかっていたと思う。」と、彼女が恐れていた事実を口にしました。
カリノがその事実に息を飲むと、「でも今は治っているはずだよ。」と付け加えました。不治の病、治す方法がわからないとされている不登光症候群が治るということはどういうことか。彼女はさらに説明を求めます。
「うーん。治らないわけじゃないんだよ。」
治るんだけど、治せない人もいる。例えばカリノは僕が光になることで安定しただろ。でもそれは僕とカリノの関係性の中でしか成り立たない治療法なんだ。他の人には、他の存在が光にならなければいけなくて、大抵の場合、その存在がいない、求められないことが多い。ヒイズはそういうことを解説しました。
「ヒイズとの関係性…。」
そう。と通信の向こう側でヒイズはうなづくと、
「カリノがあの方法で治らなかったら、僕はあまり信じられていないという事実を突き付けられるところだったよ。振り向いてくれてよかったw」
と、少し戯けて言いました。
「何それ。」
軽口にいらっとすることができるほど、気力が戻ってきたのを実感し、カリノは言いながら口元が綻ぶのを感じました。
「まさか自分が罹るなんて、思わなかった。」
カリノがそういうと、ヒイズは「そんなことないよ。」と否定しました。僕はカリノは危ないと思っていたけどね。カリノみたいな人が、実は一番危ない。
「何それ。」
先ほどと同じ単語を、カリノは今度は苛立ちではなく不安げなトーンで言います。
「カリノは自分しか信じていないからさ。」
その時は、こういう話は通信でするものじゃないから、と詳しくは教えてもらえませんでしたが、後々、仕事などのついでにヒイズから細切れに説明を受けたことを総合すると、こういうことでした。
カリノは自分しか信じていないタイプの人物。誰かを心から信じることを避けてきたから、すぐに他者を切り離すことには慣れているが、同時にそれを続けることで孤独になっていくことに恐怖を抱いてもいる。まるで、灯台の光を見てもあてにせず、自分の船についたGPSだけで航海している船のようだとヒイズは言いました。
そのGPSが正常だということを、長い航海の中でどうやって証明する?壊れているかもしれない。壊れていないかもしれない。それを確かめるためには、たまには港に立ち寄って、灯台の光を眺めないといけないって、思わないかい?
「僕は、カリノの灯台になるよって、あの時伝えたようなものだよ。」
こんなやりとりをした後だったこともあり、その後、カリノはヒイズと共に「不登光症候群」の治療に時間を割くことが増えていきました。表向きは、商売のためと語るのはカリノのプライドがそうさせるだけです。実際は、カリノはカリノなりに自分がたった4日の罹患だけで社会復帰出来た幸運への感謝を世界に返すために、そして自分が再び発症した時へのそなえでもありました。
誰かに手を差し伸べる人は、その人自身が病を抱えていることが多い。そんな理を、どこかで聞いたことがあります。カリノはその理を、半分そうだと納得し、半分違うと否定していました。
誰かに手を差し伸べる人が病を抱えていることが多いのではなく、病を抱えていない人がほとんどいないから、その中で、手を差し伸べる人はたいてい、その人も何かを抱えているということなのだというのが彼女の考え方です。
「そう考えた方が、世界が平和に見えるでしょ。」
あれからすっかり再発もせず元気になったカリノは、そう、ヒイズに対して言いました。そのドヤ顔ぶりに、ヒイズが苦笑するのはいつものことです。
4205年7月27日。あの日からいく年もすぎましたが、まだ人類は、不安の時代を生きていました。けれど、あの頃よりも彼らが少しだけ明るくなっているところを見ると、「不安の時代」が「普通の時代」になる日も遠くないのかもしれません。
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