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7月30日のお話

「うちの会社は、なんでこんな高いところにオフィスを借りたんですかねぇ」

人事評価と異動の時期に差し掛かり、急に慌ただしくなった人事部の執務室で、ふと窓の外をみながらカリノは呟きました。

「そりゃあ、上を目指して頑張ろうっていう精神の現れだろ。」

誰かに語りかけたわけでもないその言葉を、律儀に拾ったのは、人事部に”相談”に来ていた首都圏営業部の竹岡部長でした。部長と言っても、最近若返りを目指しているファッション系大手企業の営業管理職の年齢は若く、竹岡部長も40代前半です。女性の多い職場で男性管理職を張るのは気苦労も多いでしょう。その若さにしては白髪の多い(けれども豊かな)頭髪は、彼の年齢を少し上に見せます。

「上を目指して、か…なるほど。」

カリノは昨年この会社に転職してきた人事マネージャーですが、平均年齢が20代という若い社員の多い会社で、30代後半の彼女はすでに重鎮扱いです。部長人に対しても、いつの間にか「だって同世代だし」という感覚で敬語を使わなくなるフランクさが意外と好評で、こうして他部署の管理職を中心にカリノの元に”相談”に来る人が多いことも重鎮感を高めているのでしょう。それだけではなく、妙に年配の人からも可愛がられる点なども、一目置かれる理由でした。

「竹岡部長、お問い合わせのデータ、揃いました。」

ぼんやりと外を眺めるカリノの前の席に座っている後輩社員が、忙しそうにキーボードを叩きながら口を挟みます。邪魔をしているわけではありません。もともとは竹岡部長が「調べて欲しいことがある」と訪ねてきたことを後輩社員に作業依頼をして、作業時間中、二人は”待っていた”という時間です。依頼されたのは、竹岡部長の部下、Aさんの過去の目標管理制度の自己評価の記録です。

「おっしゃるように、過去3年分、すべて、オール150点を付けていますね。すごい。」

後輩社員の報告に、やっぱりな、という表情で竹岡部長はカリノを振り返ります。「どうおもう?」

ことの顛末はこうです。

カリノの会社の人事評価は、導入している目標管理制度を使い、自己評価と上長評価を総合して判定します。5段階あり、S・A・B・C・Dです。Bが100点、つまり普通の達成で、Aがハイ達成の120点。150点というのはハイ達成を上回る記録的な貢献ができた場合につく点数で、Sを示します。

そういう「S」評価を、自己評価で「毎回提出してくる部下がいる。」というのが竹岡部長の当初の相談でした。「ほんとに?」と半信半疑になったカリノを納得させるために、その社員が中途で入社してきた3年前に遡り調べてみたという状況でした。

そういう記録的な貢献が毎回続いているのかといえば、確かに営業成績はトップクラスなのですが。

「この成績は、一人で勝ち取ったものじゃないだろ。」

というのが竹岡部長の相談でした。この会社のように大きな歴史ある企業では、そういう数字だけではなく、周囲との調和やバランス感覚なども求められる傾向が根強く残っています。

「大抵は、ここぞってときだけSで、例え好成績だったとしても”今回はチームに支えられたおかげで”と自分の力だけではないからとAにするとかさ。」

竹岡部長の主張は続きます。

確かに過去の自己評価、どれをみても「自分の価値の主張」が延々と続いています。こうピックアップされて読んでいくと、確かに竹岡部長の気持ちもわからないではないですが。「この子、社風ミスマッチだったのかもしれないわね。」とカリノは心の中でつぶやきました。

Aさんの前職を調べれば、きっと成果主義的な新人教育を叩き込まれたような経歴が出てくるのだろうと予測しながら履歴書をひっぱってみると、予想通りです。そういうところで成果を出してきた子なら、こうなるのは仕方ありません。むしろ、目標設定の時のコミュニケーション不足もあるだろうな、と管理職との相性によって評価がぐらつくよくある事例を目の当たりにしているようでなんとも言えない気持ちになりました。

「俺のところに来て、4回目の評価なんだよ。過去3回マイナス評価を俺がつけたことで、本人には不安が溜まっていてさ。」

今回もまた最高点で来たから、またマイナス評価しているようになってしまう。「今度はぜったい辞めるとか言っててさ、前回。」

話しているうちに、竹岡部長の相談の核心がようやく出てきました。ようは、そこが1番の悩みなのです。悩みというか、伏線を張る意味もこめた「相談」です。部下がやめた時の正当な理由を今から作っておこうというところでしょう。こういうことが巧い人物は、組織でしっかり出世していきます。カリノたちの仕事は、この竹岡部長の”相談”に対応策を提示することではありません。そういう相談を受けていたという事実を一緒に作るだけで十分なのです。

ここでカリノが「いえ、竹岡部長。目標設定時にそもそも」などと口を開いている人物だったら、彼女もここまで一目置かれる存在にはなっていなかったでしょう。「言わない」こともできる年齢になったあとの転職だったことが彼女には幸いしていました。30代前半の彼女なら、きっとはっきりと言ってしまっていたでしょう。組織とはそういうものです。

「竹岡部長の心配は、ごもっともですね。」

カリノはとりあえず、相手を肯定しておいて、先ほどのことを黙る代わりにこんなことを言いました。

「Aさんの今後が、心配です。人事部としても。」

「今後?」

今後ってどういうことですか?と、後輩社員がすかさず聞いてきました。おそらくカリノが「人事部として心配」といったことを「人事部の自分も同じく心配しなければ」と正直に捉えての行動でしょう。まだ後輩社員は、若いのです。

「そうね。たぶんAさんは、自分でなんでもやらなきゃいけない。って思って仕事をしていると思うの。裏返すと、自分はなんでもできるはず。」

そういうと、カリノは再び窓の外のビル群を見下ろしました。

「この街、すごい景色よね。見渡す限り”人工物”で。」

人間は技術の発達によってここまでできるようになったでしょ。空すら狭く感じるほどに大きな大きな建物も作れるようになった。この景色はみんな人間ができたことしか見せてくれない。

カリノのその話に、なんの話だ?と首をかしげながら、竹岡部長もつられて窓の外を見下ろします。確かに、どこをどうみても、人工物以外は目に入りません。

「人間ができることしか見えないと、人間にもできないことがあるっていうことを、忘れがちになるのよね。」

できないことがあることを忘れている人に、できない目標を立てさせることはできないでしょ。できないことを知らないから、できないという現実を目の当たりにしたら、それこそ、会社をやめてしまいかねないし。

「まずは、人間はできないこともたくさんあるんだ、ということを思い出せるといいんですけどね。大自然に圧倒されるとか、抗えないような恋に落ちるとか。」

「恋!?」

良い話風に雰囲気がまとまっていたところで、カリノが発言した「恋」という単語に竹岡部長が大袈裟に反応しました。

「え、なんですか…。」

そこだけを切り取られて、アラフォー独身のカリノはあからさまに嫌な顔をします。

「いや、鉄壁のカリノから、恋という単語を聞くとは思わなかったから。」

「確かに…」

と、好奇心から応戦してしまった後輩社員もろとも二人を黙殺すると、カリノは席を立ちながら言いました。

「まずはちょっと、フロアを下層階に移動させたらどうですか。Aさん。そうしたら少し目線も変わるかもしれませんよ。」

人間は、毎日目にするものがいつの間にか心を変えてしまうものだから。

2019年7月30日。最近できた新しい彼氏のことは、絶対社内に漏れないようにしようと、カリノは心に誓いました。

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