8月2日のお話
2019年8月2日23時55分。
ふーっと大きなため息をついて、木戸山コンノは自宅のソファーに倒れ込みました。夏も本格的になってきた8月の金曜日。こんな時間に帰宅したのは、飲んでいたからではありません。同期仲間からのビアガーデンに行こうという誘いは断っています。残業です。それもとても不本意な。
今日、コンノが抱えていた残業は、後輩が投げ出した記事のリカバリでした。
その記事というのは、コンノが一年以上かけて追いかけていた環境省のネタを元にしたものです。本来は彼女が記事化する予定でしたが、企画が通ったタイミングで新人の後輩社員に譲ることになりました。
「世界的な社会課題に繋がる課題をやりたいと本人が言っているから、一度ぜひやらせてみてはどうだろうか。」という部長の指示があったときは、さすがのコンノも「は?」と拒否感を顕にしましたが、部長は「頼むよ、俺もフォローするからさ。会社命令。」とゆずりません。
これは最近、会社の至る所で見聞きする「社内改革」の一つにまきこまれたな。と、コンノは頑なな部長の態度に透けて見える理由を、うっすらと感じ取りました。「若手にも平等に機会を」そんなスローガンが、あろうことか編集部の会議室に貼られていたのをみた記憶が、その直感を確信に変えました。
下積みが長いという印象のある編集業界では、最近、若手の離職率の高さが問題になっていました。コンノの勤めている会社も同様で、確かに20代前半の社員は新卒で多めに採用してもなかなか定着しません。少し前の社長の話でも「年齢関係なく活躍できる実力主義の会社へ」などと語られていたのです。
「自分が育てたネタを若手に譲のは、中堅にとっては不平等かと思いますけどね。」などと悪態をつきながらも、拒否権のないことは理解できたので、素直にこれまでの取材データなどを丁寧に引き継ぎをしたのが一月前です。
「悪いね、コンノの下調べのうえで記事がかけるなんて、あいつも幸せだよな。あとは俺がフォローするから。」
調子良くそう言っていた部長が、その後、どの様なフォローをしていたのかは不明です。何気なくスケジューラーをみていたコンノが、最終の追加取材のアポイントがさっそく後輩社員のスケジュールに入っているのをみかけたのが二週間前。前任の自分に一切コミュニケーションをとらずにやらせるとは、部長も甘やかしてるなと思いながらも、記事を書く頃には、とはいえいろいろ聞きにくるだろうと彼女は予想していました。
しかし、そんな予想に反して、コンノのところにその後輩社員が現れることはありませんでした。コンノもコンノで、別の取材が忙しくなり、一月前に譲った案件のことは忘れかけていました。
ところが。原稿締め切りの3日前になって、原稿の進捗が白紙だということが発覚したのです。それが、昨日の夜のことです。部長が電話口で声にならない声をあげているのをデスクで聞き、コンノは耳を疑いました。
どうやらその後輩社員は、フォロー役の部長には「記事は半分以上書けていますが、体調が悪く在宅勤務で」という報告をしていたというのです。虚偽の報告をされていたことに激怒した部長ですが、かといって一文字も書かれていない記事の添削フォローはできません。
「木戸山!」と大きな声でコンノを呼ぶと、すまん!と頭を下げながら、取材の録音データ入りのUSBを差し出したのでした。それが、一晩開けて、今朝。
「はぁ…。」
昨日のその電話のやりとりを耳に挟んだ時点で、そうなるだろうと予感していたコンノは、今朝は自宅においてあったこれまでの海洋プラ問題の資料や書籍一式を持って出勤していました。しかしその時、目の前で頭を下げているのが部長一人で、問題の後輩社員の姿はどこにも見当たらないことに眉をひそめると大きなため息をつきました。
差配ミスと管理の甘さという点の「すまん」は部長から受け取れても、人のネタを美味しいところだけ横通りしておいて、一文字も記事にできずに尻拭いをさせた本人からの謝罪はどうなるのでしょうか。20代前半の新卒2年目くらいの男子です。先月の異動で編集部に配属され、意欲満点で明るい印象を振りまいており、そんなに仕事ができないタイプでもなさそうな様子でしたが。
20時前になった頃、部長が申し訳なさそうに金子半之助のてんぷら弁当を差し入れに持ってきたときに聞いた話では、その後輩社員は、
「僕は、これまで努力をしたことがありません。」
という一人語りからはじまる言い訳を電話で一時間ほど繰り広げた挙句、数日前からできない仕事のプレッシャーでパソコンを開くと動悸がしていたとか診断書がどうとかそういう話を繰り返すのだと言います。
「結局、あいつは、努力が必要なことは僕には無理なんです。そういう人間なんで。と言い捨てて、電話を切ったよ。」
たぶん会社辞めるだろうなぁ。と部長は肩を落とし、ため息をつきます。良かれと思って与えた「平等な機会」とやらで、またこの会社の新卒離職率が上がるのです。目標と逆行する結果を招いた部長の査定は、今期はマイナス評価かもしれません。そういうため息です。そんな部長の話に、コンノは相槌ひとつ打たずに一心不乱にパソコンに向かい記事を書いています。これ以上、彼女に話しかけてもリアクションはなさそうだと感じ取った部長は、
「あ、それ、卵の天ぷら入りのやつ。高いやつだから。」
と、余計な一言をいうと、逃げる様にオフィスを退勤していきました。
金曜日だからでしょう。早々に誰もいなくなった編集部のオフィスにひとりになると、コンノはぼそりと呟きました。
「努力の問題じゃない。」
結局23時頃まで粘り、「明日仕上げる」という目処を立てたコンノが自宅に帰り着いたのは、日付が変わる直前でした。
彼女は、倒れ込んだソファーの上でしばらく動けずにいましたが、このまま眠れる様な若さでもないと思い直すと、ホットチョコレートでも飲もうとエスプレッソマシンにカップをセットしました。
スイッチを押すと、抽出している間にメイクをおとすために洗面台へ向かいました。お酒を飲まない日のコンノの日課です。こういう作業を自動化することで、彼女は一人暮らしの自分のルーティンワークを規則的にこなすようにしていました。
クレンジングで顔をマッサージしながら、コンノは改めて後輩社員のことを思い出しました。「努力が必要なことは僕には無理…か。」
彼のその言葉は、オフィスで部長から聞くっと、腹立たしいだけのフレーズでしたが、今こうして落ち着いた気持ちで振り返ると別の表情も読み取れる様な気がします。
彼は表面上は普通の、いや、普通より少しかっこいい部類の顔立ちと清潔感のある格好をしていて、大学も卒業し、内定を勝ち取り、少なくとも2年は社会人生活を送っていたのです。取材先から自分宛にクレームがこないことを考えると、取材まではちゃんと?相手に不審がられないほどには出来ていたということでしょう。
すると、努力が全く出来ない人間ではないはずです。
「これはもしかしたら、”努力”という言葉の意味を、間違えて教わった生い立ちでもあるのかもね。」
コンノの顔がほぼすっぴんになったところで、洗面所の小窓から、一匹の猫が顔を出しました。一階にあるコンノの部屋には、たまに近所の猫が立ち寄り餌をねだります。
「あら、エル。」
今日顔を出した猫には、エルという名前をつけています。にゃぁと挨拶をするようにひと泣きすると、するりと窓から室内に入り、リビングの方へあがっていきました。
「努力という言葉は、そうね、よく誤解されるかわいそうな言葉なんだもんね。」
顔をタオルでふきながら、コンノは中学生の頃に出会った国語の佐々先生の話を思い出していました。佐々先生は、小柄なおばあさん先生で、多感な生徒たちの気持ちをほぐすのがうまく、生徒にもとても人気のある存在でした。その先生が、ある日、国語の授業の時にこんなことを教えてくれました。
「みなさんは、”努力”とは、苦手なことや、嫌いなことを克服するために使う言葉だと思っていませんか?そうではありません。努力は、人がやっていないことをやれる力の総称です。」
それが、得意なことでも、自然とやっていることでも、人がやっていないことをやっていれば、みなさんは”努力している”と胸を張って良いのよ。これ、テストに出るからね。
その頃は、一体なんのことかよくわかりませんでしたが、大人になるころには、先生の伝えたかったことがなんとなく、理解できる様な出来事がいくつもありました。
「やっぱりあれね。言葉を使う人は、言葉の定義を正しく理解していないといけないわね。」
スキンケアを手早く終え、リビングに戻ると、甘い匂いがエスプレッソマシンの方から漂っています。そしてその足元には、餌をもらえるのを待ち構えているエルが背筋を伸ばして座っています。
「そういう意味では、彼が編集という仕事に向いていなかったのは、間違いなさそうね。」
コースターにスプーンとビスケットを載せて、ホットチョコレートをソファー横のデスクに運びます。コンノはホットチョコレートを、ビスケットはエルにあげるためのものです。
「彼も、先生の授業を受けていたら、人生変わっていたかもしれないのにね。」
エルに向かってそういうと、エルは、それよりもビスケットを早く、とソファに座るコンノの足元でにゃあと大きくなきました。
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