6月17日のお話
2000年6月17日
毎年クリスマス前に開催される聖歌祭で、アヴェ・マリアのソロを歌えるというのは、聖歌隊に所属する部員にとって何よりも名誉なことでした。今日はそのオーディションの日。中高一貫教育のこの学園の生徒、6学年のトップが決まる日です。
一般の生徒たちは、このオーディションが行われると、聖歌祭まであと半年か…と想いを馳せます。聖歌隊に所属していない一般生徒も、中学二年生と高校二年生は学年全員が聖歌祭に歌い手として参加します。そのための厳しい訓練が、ソリスト決定共に始まるからです。
高校二年生の学年に当たっていた狩野ヨーコは、三年ぶりにやってきたその訓練に憂鬱になりながらも、今日という日を楽しみにしていました。ヨーコは美術部に所属する一般生徒です。あまり関係ないはずのヨーコが、今日のオーディションを楽しみにする理由は、美術室の場所にありました。
ヨーコたち美術部が活動する美術室は、音楽室とおなじ階にあり、音楽指導室を挟んで隣り合わせになっています。冷房を入れるほどでもないけれど蒸し暑くなってきた6月。窓を開け放った美術室では、隣の音楽指導室で行われているオーディションの音が、大変良い具合に聞こえるのでした。ヨーコは学園中で上位を争う歌い手たちの歌を存分に楽しむことが出来ます。そして都合の良いことに今年のこの日は土曜日。普段は授業時間も含めて行われるオーディションですが(聖歌隊はオーディションの時間だけその授業を抜けることが許されていました!)土曜日は授業が終わった後、午後の時間をたっぷり使って行われます。つまり、ヨーコのような一般生徒も、ずっと美術室でその様子を聞くことが出来るのです。
彼女は、オーディションで歌われるグノーのアヴェ・マリアが大好きでした。この学園に入り始めて聖歌祭を経験した時、こんな美しい歌が世の中にあったのかと、身体が震えるような感覚を覚えたものです。
13時。オーディションが始まりました。伴奏役のピアノが、先に滑り出すように前奏を奏でます。この曲の伴奏パートは元々バッハの曲です。当時から数えて、およそ130年前にバッハが作った『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1曲のプレリュードという曲に対して、歌詞の旋律をのせて編曲したこの曲は、時空を超えた共作で、この成り立ちもヨーコの心を鷲掴みにしたのです。
幼いころから絵をかくことが好きで、今も美術部に入っているヨーコにとって、芸術作品の成り立ちは興味関心の向くところでした。この素晴らしい作品を、全くの「無」から生み出したのか、何か「モチーフ」があったのか、それとも「踏襲した」ものがあったのか。彼女は、音楽にしても絵画にしても、どうやって生み出されるのかという物語を含めて、愛でていたのです。
ヨーコ自身の創作は「モチーフ」を拠り所にするものがほとんどでした。それが自然の風景の場合もあれば、モノや人物である場合もありますが、何かすでにあるものを自分の目でとらえ、心と魂で「それ」を解析し、再び世界に戻す際に何かと結びつけて新しいものに仕立てる。そんな風に創作に挑んでいたものですから、グノーのように、自分が美しいと思ったものをさらに美しく昇華させ、さらに聖母を賛美する歌詞を載せて代表的な賛美歌に仕立ててしまう行為は、憧れ以外の何物でもありませんでした。
今日もヨーコは、窓の外から聞こえてくる肉声のアヴェ・マリアを堪能しながら、一人美術室でキャンバスに向かい、風景画の着色を進めていました。先日、学校裏の丘でデッサンをしておいたものです。色をのせるときは、グノーの美しい調べの力を借りたいと思って準備をしていたのでした。
その時です。
5人目くらいのアヴェ・マリアが終わり、次の人の番になったとき、聞きながらキャンバスに向かってデッサンをしていたヨーコの手が、ぴたりと止まりました。なんと、前奏のあとに響いてきた旋律は、歌声ではなくバイオリンの調べだったのです。
バイオリンの、ソロ?
ヨーコは思わず音楽指導室の方を凝視しました。いくら見つめても、その壁の向こうを見ることは出来ませんが、大変なめらかで情緒あふれるバイオリンの音色は、これまでのどんな声楽のアヴェ・マリアよりも、色彩に溢れていて音のなる方から視線を外すことが出来なくなるくらいでした。
声楽のアヴェ・マリアと違い、最後の「Amen.」の音がオクターブ下がって曲が終わると、ヨーコの脳裏にキャンバスのデッサンに載せたい風景の色が一気にあふれ出しました。緑、青、白、黄色、黄緑、少しの赤と、薄黄色。
ハッと我に返り、彼女は慌てて今見た色彩をパレットの上に調合します。
デッサンの時に見た実際の丘の木々の色よりも光に溢れ、どことなく異国のような色合いです。印象派の画家たちの作品のようで、なるほど、グノーの生きた時代と重なる不思議を感じました。
2010年6月17日
ヨーコは念願だったフランス、サン・トゥスタッシュ教会を目の前に、10年前のことをふと思い出しました。
フランスに留学して一年とすこし経つけれど、なかなか来る機会のなかったこの教会に、帰国前にどうしてもきておきたかったのです。
結局あの年は、歌よりもバイオリンソロの方がうまかった、という結末で、異例のバイオリン版のアヴェ・マリアが聖歌祭を飾ったのでした。懐かしい、とこんなことを思い出したのは今日がグノーの生まれた日だったからです。グノーが若き頃、聖歌隊長として勤めたこともあったこのサン・トゥスタッシュ教会では、グノーの誕生日を祝うかのように、正午の鐘と共に荘厳なパイプオルガンの演奏で、アヴェ・マリアが響き渡りました。
当時は知りませんでしたが、ルノーの誕生日にこだわって、毎年オーディションを開催していた音楽主任の先生の想いはどれほどのものだったのでしょうか。歌い手には、作曲家の生きた時代や交流した人々を含めて、楽曲を表現してほしいという隠されたメッセージだったかもしれません。
そう紐解いていくと、グノーが聖歌隊を指導していた時代、たまたま少年聖歌隊として入隊してきた子どもの一人が、のちに画家として有名になったルノワールでした。
色彩豊かで光り輝くような曲を作り続けたグノーの意志を継ぐように、ルノワールは、生涯をかけて、そこにある風景をこの世界で一番美しく幸せな「絵」に仕立てようと、数々の作品を残したようにも思えます。
さて、私はどんな作品を生涯かけてのこすのだろう。
音楽家でもなく、画家でもなく、ビジネスマンとしての人生を選択したヨーコは、10年前からの自分を振り返り、10年後の自分を思い浮かべました。彼らに影響を受けた人物として、色彩と光に溢れた事業を生み出していることが出来ているだろうかと。
着想 ピエール=オーギュスト・ルノワール / Sentier dans le bois
ピエール=オーギュスト・ルノワール / Sentier dans le bois 壁紙ギャラリー KAGIROHI / PC kagirohi.art