7月10日のお話
これは私たちが暮らす世界とは少し違う世界のお話です。風景や生き物、人間と呼ばれる種族がいることなど、その世界は私たちの世界ととてもよく似ていますが、彼らは何度かの突然変異と文明の入れ替えを経た長い歴史を持っています。
今は一部の人が魔法を使い、多くの人が科学技術を使う時代。人間の居住区にだけ都会の街並みと自然が共存し、その他の大地は荒れ果てている。そんな世界のお話です。
4203年7月10日
新都心エリアから飛行機体に乗り、5時間。陸路だと数日かかる距離の辺境の地。旧王国デノーヴェと呼ばれる街に、カリノとヒイズが滞在して3日が過ぎました。デノーヴェは古い時代に王都として栄えた街で、レンガ造りの重厚な建造物が、今もまだ残っています。太陽が昇らなかった日までは、観光地として多くの人々が行き交っていましたが、この一年は外からの人の行き来は途絶え、観光産業で持っていた人々の生活は、徐々に苦しくなっていました。
他の産業がある街へ移住する者、家族を残して出稼ぎに出る者が増え、なおさら街は閑散としています。そんな街に、カリノは一人の上客を持っていました。
元王族で、今もこの街の市長を務めるボア3世です。彼は生まれ持った美意識の高さから、カリノに対して、服飾品だけでなく絵画や彫刻、庭の造形など、様々な「美しいもの」を求める顧客でした。ここまで多岐にわたる要求を受けていたのは、カリノが全てに一定水準以上の提案を持ち込んでいたからですが、一度良いと思ったものを長く愛する旧貴族的な感覚を今だに持っているボアの性格を如実に表してもいました。
そんなボア3世も、一年前のあの日から増え続ける不登光症候群に罹患してしまいました。発症は早くはありませんでしたが、発症後に一気に重症化してしまい、数週間に一度、集中して治療を行わなければ命が危ういという状況に陥っていました。
カリノは今では、美しいものを提案する御用聞きとしてではなく、ボア3世の治療を行える、コトダマ派の魔法使い・ヒイズを招聘するコーディネーターとして仕事をもらっていました。
ヒイズが治療したあとは、他のコトダマ派の魔法使いが行った時よりも、ボア3世の調子が良いということで、彼の家族から絶大な信頼と強い要請をうけて、月に一度、数日にわたりこの街に滞在しているのです。
治療を受けられる経済力があるという点で、ボア3世もその家族も、受けられずに不幸な運命をたどる人々よりは恵まれていましたが、完治の兆しが見えない重症者とその家族というのは、それはそれで大変なものでした。現にボア3世とその家族も、症状が長引くにつれて、本人だけでなく、周囲の家族たちも疲弊の色が濃くなっています。今回も、3日目になるとヒイズの治療で本人は生気を取り戻しつつありますが、家族の、特に息子のアムールの様子は芳しくありません。
治療の待ち時間の間、カリノが次の治療の予定を相談している際も、ハァーと大きなため息をついては、窓の外を眺めて打ち合わせに集中できていない状態が続きます。
これは、息子も不登光症候群だと診断されるのも時間の問題ね。
カリノはそんな彼をみて、憂鬱な気持ちになりました。こうして家族に伝播してしまうと、面倒を見る人がいなくなり、自宅で自立した治療ができなくなります。つまり、入院をすることになるのです。そうなると、自ずと病院の専属医がつき、カリノの顧客ではなくなります。という上客を失う痛手もありますが、彼女は「入院施設」のことを快く思っていませんでした。要介護患者ばかりを集めた施設では、どうしても治療者が足りなくなります。効率的に治療を回そうとするため、その質は落ち、画一的な対応に、治る見込みはどんどん薄まっていくと感じていたのです。
まるでサナトリウムなのだもの。
そこに自分の知っている人が入ってしまうのを、黙って見るほど夢見の悪いものはありません。カリノはそういう点からも、この家族には、なんとか、持ちこたえてもらいたいと心から思っていました。
「ねぇ、カリノさん。」
聞いていたのか聞いていなかったのか。そういう感じの打ち合わせもキリがついたところで、息子・アムールは力のない瞳でカリノを見つめました。
「これは、父上には言っていないことなんだけど。」
アムールはカリノより6歳ほど若い青年です。しかし、以前から家族ぐるみのような付き合いをしていた御用聞きのカリノだからか、話し方は友人に話しかけるようなフランクさがあります。さん付けで呼んでいるあたりが、業者として見下されているわけではないことの現れとして、カリノはそういう彼の態度をそのまま受け入れていました。
「なんでしょうか。アムール様」
カリノが聞く態度を見せたことで、少し安心したように、彼は胸の内を明かすように話し始めました。
「俺は、本当はこの街を出たいと思っているんだ」
他の同世代の仲間たちは、経済的に閉塞感のあるこの街を早々に出て、外の世界(例えばカリノたちが住んでいる新都心など)で事業を成功させたり、活躍したりと華々しい生活をしているそうです。そう言う仲間に置いていかれるように、この街に取り残されている現在の状況が嫌だと思っている。アムールはそう言う内容のことをカリノに伝えました。
「父上が、病にかからなければ。お前も行って来い、と送り出してくれたのではと思うと…。」
病の父を憎みそうになる、と痛々しそうな表情で、頭をかかえる仕草をしました。
ふむ…。
カリノは、まるで自分が悲劇の王子にでもなったかのようなアムールをみて、表情に出さずにため息をつきました。お坊ちゃん育ちは、こう言うところが好かないのよね。心の中で悪態をつくとき、カリノは目をそっと細める癖があります。相手には気づかれないところでそうするのですが、この場に第三者がいて、カリノの表情を見ていたのなら、その細められた目の冷たさに慄いたことでしょう。
「アムール様。」
カリノは、努めて穏やかに彼に呼びかけると、先ほどの冬の吹雪のような瞳に、春の陽気を思わせる暖かな光を宿し、じっと彼を見つめました。
そして、アムールと目が合うと、ニッコリと笑いかけます。
「アムール様は、古い時代の画家で、カミーユ・ピサロという人物をご存知ですか?」
画商の顔も持つカリノは、時として懐古主義の貴族のために、今は亡き文明の遺産のような絵画も取り扱うことがありました。彼女が出した画家の名前は、今から2300年前に存在していた人物です。
その名前は知らない、というように首をかしげるアムールに向けて、カリノは商品カタログを広げると、カミーユ・ピサロの絵画を複数ピックアップして提示しました。
「…これは?」
アムールの前に並べられたのは、同じ都市の風景で、季節や天候が異なるだけの複数の絵画でした。
「カミーユ・ピサロの晩年のシリーズです。彼は本来は、美しい景色を求めて歩き回り、これはと思う風景を書き留める、そんな画家でした。しかし…。」
カリノは、その画家が晩年になり、病のため外に出ることが叶わず、療養していた部屋から見える街並みの景色を描き続けたエピソードを語りました。これまでの作風とは異なる雰囲気の作品になりましたが、カミーユ・ピサロのその作品は、後世の人々に素敵な気づきを与える芸術として評価されたのです。
「同じ風景でも、様々な表情を見せるということ。同じ場所の、条件の良い環境下ではない風景も、見方を変えると美しい風景に見えてくるということ。人の目は、その人の心持ちによって、見えるものを美しくも楽しくも見せる能力を備えているということ。」
そのように解説しながら、カリノは複数並べられた絵画の中で、一つの絵を指差して、言いました。
「私は、この絵が、一番お気に入りなのです。」
彼女が指したのは、街がぼんやりと滲むように描かれた、雨を描いた一枚でした。実はこの街に暮らしていた人たちは、雨が大嫌いだったそうです。ジメジメして、見通しが悪くなって。でもこの画家は、そんな風にみんなから嫌われている天気の街の様子を見つめながら、そこに優しい光が水たまりに乱反射する美しさを見つけ出しました。
「本当に素晴らしい才能を持った人は、どんな場所にいても、その場所を素敵な場所にすることが出来るのだと思います。カミーユがそうであったように。」
その絵を見つめるカリノの瞳が、うっとりしたように潤み、絵の中の風景を瞳にキラリと映しています。そこで彼女が沈黙するものだから、アムールはカリノの瞳から目をそらすことができなくなりました。何かに想いを馳せているような時間がゆっくりと流れ、ふっと糸が切れるようにカリノは意識を戻し、アムールに向き直って言いました。
「ね、素敵だと思いませんか。」
ニッコリと微笑む彼女につられ、思わずうなづいてしまったアムールは、視線を上げて再び彼女と目があうのが気恥ずかしいような気がして、そのまま彼女が示すその絵を食い入るように見つめました。
「ではまた、来月にまいります。」
ヒイズの治療が終わり、少し顔色の良くなったボア3世に見送られ、カリノとヒイズは屋敷を後にしました。
門のところまできて、振り返ると、玄関のところからまだ手を振ってくれているボア3世と、その斜め上の二階の窓には、横顔だけでこちらを見ているアムールの姿がありました。
二人は改めて大きく一礼し、門をゆっくりと出て行きます。
しばらく歩いたところで、ヒイズが「なんか、機嫌がいいね。」とカリノに語りかけました。いつもの仕事終わりより、少し足取りの軽い彼女の変化に気づいたのでしょう。
カリノは、鋭いなぁと思いながら、真面目な顔をして答えます。
「王子様に、王国を立て直すのはあなたの仕事ですよってお伝えしていたんです。きっと、わかってくださったと思って。次回来るのが、楽しみだなぁって。」
ちょうど閑散とした街の大通りに差し掛かったところで、カリノはわざとらしく街を見回しました。
「ふぅん」
そんなカリノを見ながら、ヒイズは言います。
「で?本音は?」
意地悪そうな様子でこちらをみるヒイズに、カリノは「むー」っと膨れた表情で睨みます。どうしてこの男は、こういうところまですぐに見透かしてくるんだろう。これがなかったら、もっといい男なのに。
観念したように、ため息をつき、カリノは今度は悪戯っぽい微笑みに表情を変えました。ヒイズに嘘をつくほど無駄なことはないわね。そう心の中で自省して、手に持った商品カタログの入ったカバンを抱え直します。
そして、ヒイズを正面から見つめて、少し得意げに言います。
「骨董品の旧時代の絵を、お買い上げいただいたの。高額商品よ。」
着想:カミーユ・ピサロ「ルーヴル美術館、午後、雨天」
『ルーヴル美術館、午後、雨天(第1シリーズ)』1900年。油彩、キャンバス、66.7 × 81.6 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)