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12月1日のお話

これはある街の坂の中ほどにあるパン屋さんのお話です。

そのパン屋さんがこの坂の中ほどにオープンしたのは2年ほど前です。当時からそれはそれは大人気で、平日でもお昼前後は行列ができます。休日なんて、開店してから売り切れるまで、列が途切れないほどの人気店です。人気の理由はシェフ。以前も有名店で活躍していた若手のイケメンシェフということで、オープン前からパン好きの人々の間で噂になっていたお店なのです。

そういう人気の背景を、全く知らない、パン屋の近所に住む男と、パン屋の売り子の娘がこの物語の登場人物です。

男の名は、柚木。坂の下にあるマンションに暮らしている出版社勤務、40代半ばの男性です。彼はパン屋から5分ほどの距離に住んでいるにも関わらず、まだ一度もこのパン屋を訪れたことはありませんでした。自社の雑誌で取り上げられているのを見て知っていましたし、家から駅に向かう道の途中にあるため、朝も夜もその店の前を通りますが、そんな時間には開いていません。休日に並んでまでパンを買うほどのこだわりもありませんでしたから、結局行けていない。そんな状況でした。

そんな彼とパン屋の関係に変化が訪れたのは、2020年12月のことです。コロナで広告営業だった彼の仕事は減り、いつもは終電で帰っていた帰宅が格段に早くなったのです。今月からは残業なし。そう言われて早速、今日は18時という信じられない時間に最寄駅に到着してしまいました。冬場なのであたりはもう暗くなっていますが、人通りと道々の民家の明かりがいつもとは違います。車通りもあって、深夜0時を過ぎた頃と比べると、雰囲気が随分と違います。

うちの街は、結構賑やかなんだな。夜も。

そんなことを考えながら、柚木は坂を降っていました。すると、いつもの終電間際の時間では当然のことのように電気が消えているパン屋に、暖色の暖かい明かりが灯っているのが目に入りました。中に、スタッフらしき女性が忙しそうに動き回っているのも見えます。

あ、あのパン屋も、やっている時間なのか。

パン屋に興味があったわけではありませんが、普段「行こうと思っても行けなかった」存在に「行ける」可能性をチラつかせられると行ってみたいとお思ってしまうものです。明かりを見つけるのと、足がそちらに向かうのとがほぼ同時というほどの様子で彼はパン屋の扉の前に歩みを進みました。

ガラス扉のドアノブに手をかけようとして、ふと、違和感を感じて思いとどまりました。扉の向こう側に見える店内に、パンが一つもないのです。もしかして。柚木はふと、このパン屋の特集記事の一文を思い出しました。

開店してから売り切れるまで、列が途切れないほどの人気店

売り切れ次第閉店という店です。

パンがないということは、明かりがついていても開いていないのではないか。彼はそう思い至り、自分の考えの浅さを恥じました。よく考えればわかることです。そういえば以前、「パンを買ってきて欲しい」と言われて調べてみたら、Instagramに「本日も完売のため閉店です」という投稿が16時頃にポストされていて驚いた記憶もありました。そうです、ここは人気店なのです。

こんな時間に街を歩くと調子が狂う。

そう自分を慰めて、その扉の前を離れようとした時、ふと、扉の向こう側の女性と目が合いました。パン屋のスタッフのようです。

慌てて扉の方に駆け寄ってきます。その様子を見て、柚木は思いました。これは、「すみません、もう閉店してしまって。」と謝られるパターンだ。と。それは申し訳ないし、どうにも恥ずかしいことでした。彼はできることなら、彼女が扉を開ける前にその場を立ち去りたいと思いましたが、彼女が目線を逸らさずにいるのでそれもできず。

カチャリと鍵を開ける音がして、カランッとベルを鳴らしながら扉が開かれました。

扉の中から、美味しそうなパンの残り香が漂ってきて、柚木の鼻をくすぐります。美味しいパン屋には、残り香もあるのか、と妙な事に感心をしていると店員の娘が「すみません」と頭を下げました。

「もう、閉店してしまって。」

予想通りです。柚木は、心の中で準備をしていた無難な笑顔を浮かべて「いえいえ」と合わせて頭を下げます。

「失礼しました。明かりがついていたのでつい。こんな時間まで開いているわけないですよね、このお店が。申し訳ありません。」

言いながら、一刻も早くこの場を立ち去ろうと踵を返すと、パン屋の娘が慌てたように「あのっ」と呼び止めました。

「あの、お近くに、お住まいなのですか?」

え?

予想外の質問を突然向けられ、柚木はぽかんとした顔で彼女を見返しました。

「あ、すみません。」

そんな彼のリアクションを見て、彼女も自分の質問の不適切さに気づいたようでした。言い訳のように、その質問の経緯を話し続けます。

「あの、いつも、朝、駅を出たあたりですれ違う、方、ですよね。お店の方から歩いて来られるから、お近くの方かなと思っていまして。でも、お客様としてはお見かけしなかったので、ちょっと気になっていて。」

「え?朝…?」

柚木はその経緯にも驚き、思わず聞き返しました。彼は朝は低血圧もあり、ぼんやりとイヤホンで音楽を聴きながら歩いているため、誰とすれ違うなどと気にもしたことがありませんでした。思わず、何時頃?と聞くと、8時30分頃です、と自分がいつも駅に向かう時間を当てられて、バツが悪くなりました。自分の知らないところで、自分を認識されているのは、閉店しているパン屋の扉の前に立つよりも恥ずかしいものです。

「すみません、朝は気づかなくて。あ、それと、お店に来られなかったのは、朝が早くて昨日まで夜も遅くて。あと行列は苦手で。」

柚木は自分が言い訳がましいことばかり言っているようで、もうこの場を立ち去りたくて仕方がありませんでした。こうなると、明日の朝も、時間を早めて彼女に見つからないように出社しなければいけません。

「そうですよね。行列が、とおっしゃる方は他にもたくさんいらっしゃると思います。すみません。」

彼女はそういうと、「あ、そうだ。」と言いながらカウンターの裏にいくと、袋を二つ持って戻ってきました。「もしよろしければ、今日焼いた分の、残りです。自分ように持って帰ろうと思っていたものなので、差し上げます。」

パンが入っている袋を差し出されながら、柚木は予想もしていなかった展開に、妙にドキドキしている自分に気がつきました。意識してみると、目の前でパンを差し出す彼女の笑顔はとても可愛らしく、顔立ちも整っています。こんな可愛い子がパン屋の売り子の仕事をやるのか、と思ってしまうくらいです。

「えっと、ご家族がいらっしゃるなら、一袋だと足りないと思いますので、こちらも。そうでなければ、一袋で、焼き立ての今日中にお召し上がりいただけると。」

黙っている柚木に構わず、彼女はそう話します。

「あ、いや、一袋で十分です。というか、もらってしまうのは申し訳ないので、買います。」

彼女の勢いに負けるように、そう言って一袋だけ受け取ると、彼は財布を取り出しました。

「いえ。それは売り物ではありませんので、受け取れません。それにレジは閉めてしまいました。今は、掃除中で。」

彼女はそう言って、頑なにお金を受け取ろうとしません。そして、「もしよろしければ、明日から土日になるので、うちは月曜定休日で。なので、また来週も火曜日以降、この時間に来てもらえたら残しておきます。本当は取り置きはしませんが、特別に。その時はお金をいただきます。」と続けます。

そんなに特別扱いされるのは困る。そう言おうとして、彼女に「ご近所の方に、味を知っていただけないのは、パン屋としてちょっと違うと思うんです。でもうちはシェフが有名だから遠方からのお客様も多くて、そうもいかなくて。」そう先を越されました。

そんなふうに言われては、断るのも無粋な気がしてきます。柚木は「それなら、ありがとう。」とだけ言って、その場は引き下がりました。そして、去り際に、そうだ、と思って再び振り返ると、こう言いました。

「あ、えっと、柚木です。よろしかったらお名前を。」

彼女は照れたような笑みを浮かべてこう言います。

「はい、クルミです。苗字はありふれているので、クルミと。」

「クルミさん。今日はありがとうございました。」

「こちらこそ。」

そう言って店を後にして、柚木は改めて手の中の紙袋に視線を落としました。妙な展開でしたが、不思議と悪い気はしません。

申し訳ないと思って一袋にしましたが、どうも小さなパンが2・3個は入っているようです。妻に良い土産ができた、とも思い微笑みが漏れます。妻の方は、出社自粛でほとんど家から出られず機嫌が優れません。そんなようすったので、今日は自分が珍しく早く帰ってどういう顔をするだろうと半分不安でしたが、この土産があれば機嫌も治るかもしれません。

「ご近所の方に、味を知っていただけないのは、パン屋としてちょっと違うと思う」

人気店のパン屋の娘が、そういう考えを持っているというのも、心が温まる話でした。そう言われると、これからは自分も近所に住むものとして、あのパン屋に通うことが使命のようにも思え、親近感が湧きました。

何にせよ。帰る時間が変わると生活の世界も変わる。この冬は、残業手当はへるけれど、何か面白いことが起こるかもしれない。幸先の良いノー残業初日を迎え、柚木はそんなことを考えていました。


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