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8月7日のお話

確かにあの時、僕は君のことが好きだった。
でもその時、君には僕よりも素敵な彼氏がいた。
だから君は僕にとって、憧れの遠い花になった。

そんな歌詞の曲が、ドライブ中にラジオから流れてきて、カリノは急に大学生の頃の風景が頭に戻ってきたようで、思わずハンドルを握り直しました。気を抜いたら、思い出の波に視界が遮られ、運転が続けられないような危うさを感じたのです。

それは、ラジオのせいでもあれば、きっとドライブをしているこの海岸通がある街のせいでもありました。

彼女の通っていた大学の近くには、海がありました。ちょうど今運転しているような、海沿いの道路が続いており、学生たちは車を持っている先輩に連れられてよく、授業の合間に海岸通をドライブしたものでした。

そんな海岸通の風景の一コマに、カリノは今でも忘れられない淡い恋の思い出がありました。と、言っても、あの時代の若さの頃には”よくある”すれ違いの恋の話です。

当時、カリノには学生会長の彼氏がいました。彼が大学四年生で、カリノは二年生です。入学して早々に声をかけられて付き合い始めたので、もう一年以上、二人は周囲の友人公認の仲でした。

そんな彼氏が、夏休みは、就活を終えた内定者の集まりに忙しいくなりそうだと言っていたのをきっかけに、カリノは大学近くの海岸通のカフェでバイトをするようになったのです。そのバイト先で出会ったのが、淡い恋の相手、セージでした。

最初はカリノは、セージに恋をしているとは思ってもいませんでした。当たり前のことですが、学生会長の彼氏もいます。会えない日は多くなりましたが、まだ仲は良いカップルだったのです。だからセージは、ただ、一つ年上の、親切なバイト先の先輩。でも話をしているととても楽しい。そういうだけの、存在でした。

ところが、ある日、バイト先の店長から「あら、あなたたち、なんだか妙に息があってきたわね。もしかして、付き合ってるの?」と茶化された出来事がありました。

そう言われた途端、カァッと顔が赤くなるのを、カリノは今でもその”感覚”から鮮明に覚えています。そんなことを言われるとは思いもしなかったので、とても動揺してしまったのです。赤くなる自分の顔を押さえながら、カリノは店長に言い返しました。

「違います!そんなこと言ったら、その、セージさんに、失礼です。」

その時の自分を今見ると、きっと頭を抱えたくなるほど恥ずかしい状況だったと思います。あらあら、そんな怒らなくてもーと、笑う店長に背を向けて、キッチンに引っ込むことしか、当時の彼女にはできませんでした。

サービス用の水を入れているピッチャーから、その辺りにあったコップに水を注ぎ、一気に飲み干して気持ちを落ち着けます。冷たい水が空腹の胃を冷やしながら落ちていく感覚を感じていると、いつの間にかセージもキッチンに入ってきていました。

「あ、セージさん。ダメですよ、こっちにきたら。また店長に怪しまれる。」

そう慌てるカリノに、セージは特にそんなことは気にしていない、というような落ち着き払った様子で、「僕は、迷惑じゃないよ。」とぽつりと言いました。

「え?」

そう聞き返した言葉は、おそらく小さすぎて彼には届かなかったのでしょう。キッチンの中に、妙な沈黙が流れました。


そんなことがあった日から、数日が過ぎていたと思います。その日、珍しく内定者の飲み会がキャンセルになったからと、カリノの働くカフェに彼氏が訪ねて来ました。そういえば彼がカフェに来るのは初めてです。何か妙に良いことがあったようにバイト中のカリノに話しかけると、バイトが終わるまで待つからドライブに行こう。と、大きな声で誘うのです。

カリノはその瞬間、とても嬉しいはずなのに、キッチンの方で絶対に聞いているセージのことが気になるばかりで、一刻も早く彼が帰ってくれないかなどとすら考えてしまっていました。

この時です。彼女が自分の気持ちに気がついたのは。

「私、セージさんのことが、好き?」


しかし、翌日からセージは、これまでのようにカリノに親しげに話て来るようなことが少なくなりました。表面上は、何も変わらず、仕事も円滑に協力できるのですが、なんとなく、何かが遠い。そう感じさせるようなコミュニケーションでした。

勤務後の携帯メールのやりとりも、すこしずつ少なくなったようです。


そうこうしている間に夏も終わり、カリノもバイトを終えて学業に専念する日常に戻って行きました。それきり、セージとも疎遠になったまま。


次の夏を迎えました。カリノは大学三年生になり、付き合っていた学生会長とは、彼が就職してすぐくらいに別れを告げられ、今はフリーです。

夏の予定も特にないし、と考えて、今年もカフェでバイトをしようとしたのは当然の選択でした。もちろん、そこに、フリーになった今、改めてセージに会えたらという期待がなかったわけではありません。そんなドラマみたいなことがあると良いな、くらいに考えてバイトに臨みました。

少し気まずくなったけれど、別にはっきりと告白されたわけでもないし、はっきりと振ったわけでもない。そしてあの時の彼氏は今はいない。そんな状況で再会した二人は、最初はぎこちないながらも、少しずつ、少しずつ、昨年の楽しかった頃のテンポを取り戻すように接近していきました。少なくともカリノは、そう思って毎日を楽しんでいました。

夏休みもようやく本番を迎えた8月7日。もうすぐお盆と言うことで、観光客もふえ、夜遅くまでいっぱいに働いたその日の仕事終わり、セージはカリノを浜への散歩に誘いました。これまでもそう言うことは何度かありましたが、この日はすこし違う様子です。セージは、不意にカリノの手を握ると、グッと自分の方に引き寄せて、激しいキスをしました。

好きとか、そう言うやり取りのない、沈黙の中のやり取りに、カリノは高鳴る胸を抱えながらも戸惑いでいっぱいになります。

そこから、どうやって帰ったのかは覚えていません。なんとなく、何も聞けず、彼も何も話さず、気まずさを誤魔化すように足早に歩いていたような記憶だけがあります。


そして、翌日、セージは沖縄に就職が決まったとメールをして来たきり、バイトにこなくなりました。

店長の話だと、随分前からそれは聞いていて、8月7日が最終出勤日だったのだと言います。

「カリノちゃんの連れていた彼氏、すごく大人だったから。セージ君、敵わないって思っちゃったんだと思うわよ。」

男って、そんなものなのよ。と妙に実感を込めて話す店長の言葉が、今も頭にこびりついています。


そこまで思い出すと、カリノは自分が今、車を運転している街が沖縄だと言うことも、思い出を引き出す要因だったのだろうなと理解しました。沖縄といえばセージ。しばらくはそう言う連想が付き纏いましたが、最近は、まさに今になるまで全く思い出しませんでした。

流石に十四年も経つと、そうよね。

自分の歳を改めて感じながら、この真夏に沖縄に仕事できている自分を呪いました。服装はスーツだし、砂浜には出られないけれど。と思いながら、冷たいものが飲みたくなり、自販機のある路肩に車を止めます。

あの時、私がちゃんと好きだと伝えていたら、何か変わっていたのだろうか。彼よりもあなたの方が好きになってしまったと伝えていたら。

カリノは考えても仕方のない、そんなことを、十年ぶりくらいに考えました。カリノは普段はあまり後悔をしない方ですが、セージのことについては、十年ほど前までは定期的に、そう「もしも」を想像してしまっていました。

始まらなかった恋だから、余計、終わりも見えないのかな。

そんなことを考えて、路肩から浜辺の方を見に、炭酸水を片手に車を離れた時、浜辺から上がってきてカリノとすれ違いに自販機を目指す数人のサーファーたちの中に、ふと、セージに似ている男性がいるのを見つけました。

まさか、と一瞬目がその男性を追いかけましたが、思い出が願望を映し出したのだろうと首を振り、日焼けをする前に、と車に乗り込みました。


2017年8月7日。あれから14年。真夏に沖縄に出張を命じるような会社はやめてもいいかな。と、カリノは「転職しよう」と呟いて、エンジンをかけると、その日の宿泊先であるホテルへ向かって車を出発させました。



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