大正時代の髪結いさんの恋
昔、住み込みで髪結いの弟子入りをしていた時のことです。
そこは古い長屋でした。京都は百年近い長屋はまだまだ残っていて、祇園町の一角の長細い路地の奥にその髪結いさんはありました。
弟子入りしてから数年経った頃、ある日2階へ上がる階段箪笥の壁のほんの僅かな隙間から、白いものを見つけたのです。
紙かな…?
取り出してみると、それは畳まれた小さな和紙で、筆文字で書かれた
恋文でありました。
階段箪笥は普段から私ぐらいしか使わなかったから、本当に長いこと誰も気が付かなかったのでしょう。何十年どころか…百年近く前のものかもしれません。
花街の髪結いですもの。
先々代のお師匠さんは未婚のまま、たくさんのお弟子さんを育てたと聞いておりました。
たぶん、その方のものかもしれないとすぐに思いました。きれいな筆蹟の方だったと聞いた事がありましたし、その手紙もかなりの達筆だったからです。
なぜこのようなところに隠したのかしら。お身の回りならいずれは必ず見つかることでしょう。まさかのところへそっと隠されたのでは…と思いました。
短い文章ではありましたが、
想いを秘めた恋文でした。
花街で生きる。覚悟をもって生きたのは芸舞妓さんだけではなかったか…。
私は胸がいっぱいになってしまい、思わず階段に座ったまま窓から天を仰ぎました。よく晴れた初秋の頃でした。
お年を召された先々代のお師匠さんは、お弟子さんたちが、ついお昼にうたた寝をしてしまっても仕事をしながら黙って見まもっていたこともあったといいます。
きっと懐深く、優しい方だったのでしょう。
その手紙は、畳んでそっと元の隙間に戻して、その後私は誰にも伝えることはありませんでした。
私の師匠は日常的なことはわりと何でも話せる師弟関係でしたが、先々代のお師匠さんの血縁者でもあったにもかかわらず、なぜか話す気にはなれませんでした。学校を卒業されてまもなく結婚され、本来ならば髪結いを辞めようと思っていた方だったから、かもしれません。
そこを去って20年以上にはなります。そして何年も前にその髪結いさんも移転してしまいました。今はもう空き家のはずです。
長屋の手紙は、きっとそのままであろうな。今頃になってふと、そのことを思い出しました。
髪結いさんの、
ちいさなものがたり。