かわる
僕は眠るのが嫌いだ。目を閉じるという行為がどうしようもなく嫌いだ。なぜ人は眠るために目を閉じる必要があるのだろうか。事件、事故、天災。危険はどこにでも、いくらでもある。それなのに、なぜ周囲の状況を見えなくする必要があるのか。これまで無事だったからといって、今日も無事とは限らない。寝ている間は何もわからないのだから。
瞼を開くと、いつもの景色がある。モニターとしてのテレビ。サーキュレーターを兼ねた扇風機。読み進まない本。知らぬ間に汚れが
増えるソファー。昨夜と変わらない景色、変わらない僕。枕元のスマートフォンが示す時刻だけが変わっている。11時。土曜日の朝だ。
宅食のアプリケーションを起動し、隣駅のインドカレー屋でチーズナンとバターチキンカレーを注文する。誤配送されたこのセット
を食べて以来のお気に入りだ。もう1年にはなる。「美味しいから」というよりも、職場で毎週水曜日に食べるバターチキンカレーと味が違うことに魅力を感じている。職場で食べるものは辛く、この店のカレーは甘い。それだけで平日との差を感じることができる。日常は間違い探し程度の違いがあるだけでいい。
部屋のインターフォンが鳴った。モニター付きのインターフォンには黒髪の男が映っている。有名なスポーツブランドのポロシャツを着た男。背が高いからか、レンズに近すぎるのか、顔が画面から見切れていた。それでも服装から、いつもと同じ男だということが
伺えた。僕は玄関のオートロックを解除し3歩で玄関まで向かう。
配達員が玄関に到着するまで 歩というところだろう。予想よりも5歩分長い時間が経ち、チャイムが鳴った。ドアを開ける。予想通
りの男だった。「おまちどうさまです」と差し出されたビニール袋からは、蜂蜜を感じさせるバターチキンカレーの甘い匂いがしてい
る。ビニール袋を受け取り部屋に戻ろうとすると、配達員の男から声をかけられた。「何か置いてありますよ」と男が指差す方に目を
向けると、廊下の床に1つの箱が置いてあった。
届けられたカレーを食べ終え、僕は固くビニール袋の口を縛った。日常に挟み込まれた箱の存在が気になったものの、時間が経ち冷え固まったチーズナンなんて食べられたものではない。しかしせっかくのカレーも、謎の箱という明らかな非日常がこの部屋に存在感を誇示し続けているせいか、普段より不味く感じられた。こうやって、外界によって人は変わることを強制させられる。部屋にカレーの匂いが籠るのが嫌なので、ゴミをまとめてベランダに出しておく。そして、ようやく床に転がしておいた箱を机の上に置いた。
箱は白い。梱包に使われているテープも白く、まるで無菌室で作られ、そのまま廊下に転送されてきたかのようだ。差出人は書かれ
ていないが、箱には名刺大のカードが貼られ、それには少し癖のある手書き文字ではっきりと僕の名前が書かれている。このカードさえなければ、僕宛の物だという確信は持てないほど、情報のない箱だった。名前の書かれたカードを箱から外し、裏面を見る。そこには同じく手書きでこう書かれてあった。
「どうぞお受け取りください」
気味が悪いというよりも、単純に不可解だった。そして、不可解さは興味をそそる。棚から取り出したカッターナイフで箱に切れ目
をいれると、切り口が刃先の錆でわずか茶色に染まった。少しだけ罪悪感を感じる。なるべく丁寧に箱を開けていくと、中には薄葉紙
に包まれた何かが入っていた。爪を立て、薄葉紙が止められているテープを外す。それは仮面だった。箱と同じ白い仮面。しかし、箱
の清浄さとは対照的に、こちらは何度も触ったのか手垢のようなものが見てとれた。きっと慣れてない人が作ったのだろう、造形が少
しずつ歪んでいるのが素人の僕にもわかった。
輪郭も、唇も、額の形も歪んでいる。壊れるのではないかとゆっくり仮面を持ち上げると、それは意外にも硬く簡単には壊れそうに
なかった。薄葉紙ごしに箱の底に封筒が見える。封筒の中には、手紙が入っていた。
箱を開けていただき、ありがとうございます。この箱を開けてくれたということは、それがほんの少しであったとしても、私に興味を持っていただいたということだと思います。私がこの手紙を書いたのは、あなたにどうしてもお伝えたいことがあったからです。手紙を書くことでしか、あなたと繋がることが出来ないということが残念でなりません。お伝えしたいこと、というのは、私はあなたを愛しているということです。きっとあなたは私が誰かわからないと思います。いきなりこんな手紙を出す相手からそんなこと言われてもきっと戸惑うだけでしょう。しかし、私はあなたにそのことを伝え、私のことを知ってもらいたいのです。私があなたと出会ったのは、電車の中でした。その日の私は、普段ならとっくに帰っている時間にも関わらず、あまりに重なった仕事のせいで日が変わる直前に電車に乗っていました。疲労からうつらうつらとしていた私は、人の動く気配を感じて目を開きました。そこにいたのが、あなたでした。あなたは私の対面の座席に座ると、鞄から本を取り出し、真剣な眼差しで読書を始めたのです。日も変わりそうな時間です。たいていの人は疲れ果てて、死人のような顔をしています。その時のあなたの顔といったら!緩みのない精神を示す張り詰められた皮膚。揺るがない意思の表す眉。屹立する鼻梁。音が鳴りそうなほど強く引き締められたその唇は、あなたが決して周囲に対して開くことのない心を持つということがわかります。あなたの眼が、鼻が、唇が、顔のパーツすべてが、私の意識を締め上げ、押しつぶし、舞い上がらせました。私はあなたの顔に恋をしてしまったのです。その後、私は無意識にあなたを追い、あなたの自宅まで辿りつきました。そして、あなたを見つめる生活を始め
たのです。あなたの眼!その瞳の色!明るいブラウン色の瞳は、まるで夜空に輝く星。深く、深く私の心に入り込むその輝き。何度、あなたに見つめられたらと想像したことでしょう。きっと私は、それだけで、そっと抱きしめられるような、幼子の心地となることでしょう。遠くからあなたの目を見るだけで、あなたの感情が伝わります。あなたを感じられます。そしてあなたの鼻の造形の整っていることときたら! !あなたの力強さを象徴する鼻は、整った顔立ちと完全なハーモニーを奏でています。高くそびえる鼻梁と、端正な鼻先。あなたが微笑んだ時、その鼻先が軽やかに上向きになると、私の心も温かみと喜びを帯びるのです。鼻の大きさは性器と比例すると言います。怒りを感じた時に小鼻が広がる様子を見ると、私はあなたの身体がその興奮ゆえに膨張する様を想像してしまうことをお許しください。あなたの唇は会話と食事の時以外、開かれるのを見たことがありません。ふっくらと、これまでに一度も傷がついたこともない
ような唇はどんな時も引き締められて、その唇を見るたびに、私は決してあなたに受け入れられることはないのだと悟らされました。あなたがコンビニで買ったチキンを食べるために、その唇を開く場面に初めて遭遇した時、私は感動のあまり涙を流しました。そうです、あなたがチキンから溢れ出る肉汁に驚き、服を拭っている時、私はこの目をハンカチで拭っていたのです。あの肉汁が私の涙だったらと何度思ったことでしょうか。服についた肉汁を見つめる、その憎々しげな瞳が私に向けられる様子を想像するだけで、私はまた身体から水滴を落とすことでしょう。
私はあなたを見つめるのは1ヶ月間だけにしようと誓いました。そう、1ヶ月です。1ヶ月もすれば、私の心は満たされ、あなたから離れられると思ったからです。しかしそれは甘い考えでした。 1ヶ月、あなたを見つめ続けても、私は何も満たされることはなかったのです。私の心は乾き、ひび割れ、あなたを見つめている時、その時だけが、私が湿る時でした。それは、私の唇も眼も肌も、私のすべての身体、粘膜が愛液で潤い、液体となり気体となり、あなたが存在する空間の一部として満たされているような時間でした。あなたを見つめたい。あなたに見つめられてたい。その一心で、私はこの仮面をつくったのです。
あなたを見つめている間に、私は色々なことに気づきました。土曜日の午前中に食事を頼んでいること。食べ終わったらベランダにゴミを出すこと。私は宅配員を始めました。そしてさらに色々なことに気づきました。あなたが注文するものはいつもカレーであること。あなたは玄関の鍵を夜にしか閉めないこと。届いた品物はどんなことがあってもすぐに食べること。私は配達する時に、カレーの中に睡眠薬を混ぜこみました。睡眠薬を手に入れるのは簡単です。あなたへの気持ちを病院で話すだけなのですから。配達が終わった後、私はあなたがベランダに出てくるのを待ち、その後薬が効き始めるのを見計らって、あなたの部屋の前に戻りました。ドアノブに手をかけた時の胸の高鳴りといったら!あなたの部屋に入ることができる喜び、薬が効いておらず通報されるかもしれない緊張。そして、万が一にもありませんが、あなたが私を待ちわび出迎えてくれるかもしれないという興奮。部屋に入ると、あなたはソファーで横になっていました。無事に薬は作用していたのです。赤子のように眠るあなたを起こさないように、私はゆっくりと作業を始めました。あなたの体をタオルで覆うと、樹脂をあなたの顔に塗っていきます。いくら寝ているといっても、この樹脂が触れる感覚に目が覚めてしまうのではないかと心配しました。しかし、どうやら私に処方された薬はそんなに軽いものではなかったようです。樹脂を塗り終えると、その上から石膏テープを巻いていきます。この手順は動画サイトで学びました。マネキンで練習はしたものの、実際の人間で行うのは初めてです。そして出来上がったのがこの仮面です。あなたに比べて何と醜いことでしょう。しょうがないのです。所詮は作り物。しかもあなたが眠っている間にこっそりと作る程度のものです。私は仮面が出来上がった時、声を上げて泣きました。私の技術のなさ。物体の儚さ。そして、あなたが私の思い通りにならない虚しさ。この歪んだ醜い仮面は、私の気持ちと同じでした。あなたの美しい顔すらも、歪めて醜くしてしまう私の気持ち。耐えられませんでした。この世で一番美しいあなたのその顔を手に入れたい。そのままの姿を仮面にし、永遠に私のそばに置いておきたい。
これから、私はあなたの部屋に入ります。もしかすると、あなたはカレーに手をつける前にこの手紙を読んでいるかもしれません。カレーに混ぜた薬が効いていないのかもしれません。すでにあなたは私のしたことに気づき、誰かに助けを求めているのかもしれません。そうだとしたら、私はあなたの姿を見ることもなく、犯罪者として裁かれるでしょう。そして、そのための告白と証拠が今、あなたの手元にあるのです。しかし、もし、この箱の存在があっても、あなたが普段のあなたと変わらずにいるのなら。私は、この仮面をより完璧なものにしたいと思います。そのためには、あなたとお別れをしなくてはなりません。あなたの瞬き、あなたの身悶え、あなたの呼吸、すべてが私にとっては不要なものなのです。あなたに見つめられるために、あってはならないものなのです。私はあなたとお別れし、永遠に完璧なあなたとともに生きていきます。
このままではあなたは、自分の身に何が起こったかも理解できないことでしょう。なので、私はこの手紙を書くことにしました。この手紙は私の犯した罪の告白であり、あなたへの愛の告白なのです。あなたが私のことを知らないまま、この世を去っていくことが、どうしても耐えられなかったのです。どうぞ、私のことを恨んでください。憎んでください。そして、亡霊となって私に会いに来てください。その時、私は初めてあなたから感情を向けられるでしょう。
そして、その時にもう一度。あなたに伝えたいと思います。
ありがとう。はじめまして。
でも今は、この言葉も一緒に。
さようなら。
手紙を読み終わった僕は、ソファーから立ち上がろうと身体に力を込めた。けれども、僕の意思に反して身体はソファーに囚われた
ままだ。この仮面は僕だった。僕の顔。知らない間に形取られた僕の顔。もう一度身体に力を込める。動きたい。動けない。頭皮に湧いた汗が、首筋に、背中に、そして顔に伝っていくのを感じる。
顔を伝う汗の不快さを僕は拭うことができない。腕や足が痺れてきている。感覚のない腕をどうにかしてに動かし、立ちあがろうとするが、できたのはソファーに倒れ込むことだけ。思い通りにならない身体に焦りが増す。しかしそれも束の間、焦る思考すらも徐々に拡散し薄れていく。
ガチャ。音がした。
もう僕の脳は何の音なのか理解することができない。
ギィ。また音がする。
音がしているのだけは理解できる。
音。聞いたことがある音。
少しずつ大きくなる音。
眠い、とにかく眠い。瞼が重い。目に入るライトの光が痛い。
ふと、視界が暗くなる。
まぶたを開けようと、残り少ない力を込める。
瞼は開いているはず。開いているのに暗い。なんで。暗い。
そこに顔があった。白い肌。白い鼻。白い唇。白く歪んだ僕の顔。
僕は眠るのが嫌いだ。
(終)
※仮面アンソロジー「MASK-A-ZINE」初出(2023年11月)
※この作品は仮面アンソロジー「MASK-A-ZINE」のために書き下ろしたものに一部修正を加えたものです。