美しい日本語
(2004/10/09記)
ここ1週間ほど『ファウスト』を読んでいる。やや意外なことなのだが、書斎で何気なく手にした高橋義孝さんの訳(新潮文庫)にすっかりハマリ込んでしまった。高橋さんは、内田百間の心の弟子であり、山口瞳さんの心の師匠。長らく九州大学の教壇に立ったドイツ文学の教授である。
『ファウスト』は、先立っても洒脱の風がある池内紀さん訳(集英社文庫)を読み返したばかりだし、書斎には柴田翔さんの訳(講談社文芸文庫)、手塚富雄さんの訳(中央公論社)、高橋義孝さんの学問上の師匠筋に当たる相良守峯さんの訳(岩波文庫)も並んでいる。
ではなぜ今、高橋さんの『ファウスト』かといえば、先月、彼のエッセイ集『私の人生頑固作法』(講談社文芸文庫)を読んだところ、自負を持って薦められる翻訳として本書の名が挙げられていたためであり、ハマったのはあまりにも美しい日本語に魂を奪われたからである。
昭和四二年初版の文庫本。長らく書棚にあったのだから必ず一度は読んでいるはずである。本当に今更こんなことを思うこと自体かなり可笑しいのだが、この歳になるまでわからない良さだったのか、などと言い訳めいたことを呟きつつページをめくる。
端整でリズムが良く、品格があるのに活き活きとした躍動感に溢れている。なによりスゴイのは語り手と対話者の位置関係が完全な日本語によって表現されていることだ。たとえばワーグネルや老農夫のファウストに対する敬意。これもファウストの弟子であるワーグネルと、「貴い身分の先生」とあがめる農夫では微妙に距離感を違えてある。
グレートヒェンのメフィストーフェレスへの違和感もそうだ。ファウストに恋慕の情を抱き、その同行者であるメフィストーフェレスを悪く言うのは失礼だと思いつつ、背教の匂いへの不安を口にせずにいられない。親しくはないが、見ず知らずでもない。その人間関係が控えめな物言いとなってファウストへ向けられる。
こうしたニュアンスの細やかな日本語には、昨今なかなかお目にかかることが出来ない。私にはそのあたりが非常に好ましい。これは邦訳の歴史におけるひとつのピークと言ってよいのではないのだろうか。……大げさか?
前述した『私の人生頑固作法』に、翻訳に関する印象的なエピソードが収められている。高橋さんが高等学校二年の時のこと、ドイツ語の授業で教授に当てられて教科書の一節を和訳したのだそうだ。
「シラーと某は、ある場所で一本の葡萄酒を飲み、遙かにゲーテの誕生日を祝った」
高橋さんの解答を聞いた教授はこう言った。
「『一本の葡萄酒を飲み』と訳したのでは、いかにも殺風景だ。そこは『一本の葡萄酒を傾けて』と訳してはどうだ」
森鴎外が、どうしたらそんなに早く翻訳できるのかと人に問われ、それは私が日本語を知っているからだ、と答えたという挿話を交えつつ、高橋さんは美しい言葉が存在するために重要な条件の一つは、語彙が豊富であること、と指摘する。美しい日本語、正しい言葉遣いにこだわり続けた碩学らしい含蓄のある言葉だ。
残念なことに著作のほとんどが絶版状態で、古典の衰退と共に高橋さんの訳業を見かけることも少なくなった。無論言葉は生き物で、日本語だって時代によって変化する、と野村胡堂さんも言っている。しかし今風の日本語を駆使する舞城王太郎さんや西尾維新さん、石田衣良さんが売れる一方に、高橋さんのような日本語がきちんと読まれる状況があってしかるべきだ。
村上春樹さんの新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が話題になったのは記憶に新しいが、白水社が野崎孝さんの旧訳『ライ麦畑でつかまえて』を絶版にせず、併売しているのは見識と言える(もっとも、それが新訳を許諾するに当たっての野崎家の条件だったとの話も聞くが…)。岩波書店の古い訳書などには感心できない誤訳が放置されていたりするが、だからといって常に新しい訳ばかりが良いというものでもない。