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勝手なアンソロジー

(2019/10/15記)

 無謀なことを思い立ったものだ。

 何しろ池内紀さんには、すでに『池内紀の仕事場』(みすず書房)という、辻井忠男さんの手になる全八巻にも及ぶ選集がある。

 しかも、ご自身アンソロジストとして様々なテーマや著者を切り口に数々の書物を編んできた、まさに「名人」なのである。

 そんな人のアンソロジーを目論むなんて、身の程知らずにもほどがある。確かにその通りである。

 しかし、池内さんの急逝(昨年来、体調を崩されていたことを知らなかったため実感としてはまさに急逝だった)はあまりにも悲しく、書斎の一隅を占拠する四〇冊を越える蔵書を読み返すうち、氏を偲ぶ自分なりのアンソロジーを考えてみようと思うに至った。

 本をお手伝いする夢は叶わなかったが、二〇年以上の長きに亘りご厚誼にあずかった編集者から最後のラブレターのつもりである。

 池内紀と言えばカフカ、そんな印象を持つ人は多いだろう。私も、ある時期まで池内さんは自らをカフカになぞらえていたことがあるのではないかと思っている。

 だから第一部の冒頭には岩波文庫の『カフカ短篇集』(池内紀編訳)から「掟の門」を置きたい。

 次に、この「純粋散文の見本」を謎めいた言葉で賞揚する『カフカのかなたへ』(原著は青土社、現在は講談社学術文庫)に収められた同作の解題「掟の門」を並べよう。

 続けて読むと、奇妙な味わいを持つ「現代のお伽噺」を介した作者と訳者の対話が浮かび上がってくる仕掛けである。

 さらに池内さんのカフカへの想いを汲むには、カフカの人となりをこれ以上ないほど細密に描写した『カフカのかなたへ』の「はしがき」と「学術文庫のためのはしがき」、そしてカフカの死後刊行された作品集にまつわるエピソードを「一束の校正刷り」から描き出した「二人の断食芸人」(『カフカの書き方』新潮社、所収)を順に読んでいきたい。

 池内さんには旅人というイメージもある。

 ひなびた温泉町から東欧の街角まで、ひょっこりとその場に現れ、着慣れたシャツのように風景に馴染む、そんな趣があった。

 だから第二部は、ヨーロッパを旅する道行きから、プラハの路地でカフカやクンデラに思いをはせる「巡歴」(『ちいさなカフカ』みすず書房、所収)、冷戦晩期の記憶をたどりつつ一九九〇年ベルリンの旅をスケッチする「ベルリンの壁売り男」(『マドンナの引っ越し』晶文社、所収)、そして日本と自身のルーツへの旅として、どこか不条理劇にも通じるおかしみを持つ「ある川、ない川」、川の水源を目指した幼い日の記憶を綴った「水神さま」(ともに『川の旅』青土社、所収)、故里ながらいささか偏狭な地域性ゆえに馴染みの薄かった姫路の祭りに取材した「ケンカだ ケンカだ」(『祭りの季節』みすず書房、所収)へと読み進め、寺田寅彦の名エッセイ「地図をながめて」に触れた「地図をひらいて」(『ひとり旅は楽し』中公新書、所収)で締めくくりたい。

 そして池内さんは温顔のうちに冷徹な観察眼を宿した人であった。

 その規矩には、自らを律すること、人との間に一定の距離を取ることなどがあったように思う。そして、規範にかなう人々に向ける氏のまなざしは限りなく温かいものだった。

 人々の営みに目を向ける第三部は、困窮のなか黙々と博物学の研究を続けた「もうひとりの熊楠」を描く「大上宇市」(『二列目の人生 隠れた異才たち』晶文社、所収)から始めよう。

 次に、おそらく池内さんが人生のあり方の一つの目標としていたと思しい、辻まことの評伝から「ヤマノカミ」(『見知らぬオトカム』みすず書房、所収)を採り上げたい。

 また、池内さんが「散歩の楽しさ」と「静かな文章」を教えてもらったという岩本堅一の『素白先生の散歩』(みすず書房)、読んでいるうちに著者の文章か編者の文章かわからなくなってしまうほど語り口の似た数学者の『森毅の置き土産 傑作選集』(青土社)、一人旅と酒を好んだあたりに相通ずる印象を受ける若山牧水の『新編みなかみ紀行』(岩波文庫)という三冊のアンソロジーの「解説」は、「哀感」と「華やぎ」のあいまった名篇で、ぜひ収録したいところだ。

 では、この池内紀アンソロジーの最後に何を置くか。

 私は『道化のような歴史家の肖像』(みすず書房)から「死の威嚇のもとに」一択である。一切の迷いはない。

「偉大なるディレッタント」にして「笑う哲人」の評伝

 ご子息である池内恵さんが「中央公論」二〇一九年一一月号に寄せた追悼文「書き手としての父 池内紀の死」は、モノを書いて生きていくことを選んだ人とその家族の業を感じさせる名筆だった。

「企画や編集の知恵を含めた出版人の才において、父を超える人は(中略)未だに一人も見たことがない」

「(父の言葉の断片が)仕事上の逼迫した事態に直面するたびに、謎めいて的確な箴言、あるいは呪いのように蘇ってきた」

といった文言は息子から父に向けられる評価としてきわめて高いものと言って良い。

 一方で、恐るべき書き手の息子は、あたかも父親を思わせる怜悧な視線を父親当人に向けることを躊躇わない。

 父・池内紀が、その父を幼いうちに亡くし、頼みにしていた長兄、そして大学時代には母までも亡くしていたことを明らかにし、こう続けるのである。

「その精神の原風景に圧倒的な地位を占めていた、早世した兄や母たちは、自らの老いと衰えの姿を父に見せて範を示してはくれなかった」

 だから池内紀は「自らの衰弱の実感と死の予感に(中略)心底恐れ慄いていた」と。

 恵さんが幼い頃から見てきた父の姿と、最晩年の父親像との間にはおそらく、相当の解離があったのだろう。

「敬愛し憧れて来た先輩たちが年老いて弱気になることを嘆き、老人が突如考えを変え、過去に遡って自らの思想を捏造しさえすると苛烈なまでに罵るのが、若い頃の父の常だった」

 長らくそんな父親を目の当たりにしてくれば、「肉体の衰えと、それに伴う知力の低下を強く感じるように」なり、「自信に満ち溢れていた頃を知る者にとって信じがたいような弱音を吐くようになった」姿は、より違和に満ちたものとなったにちがいない。

 追悼文の最後に、恵さんが「この依頼が『中央公論』からのものであるならば、中公新書『ヒトラーの時代』に触れないわけにはいかない」と切り出したことには、少し驚いた。

 恵さんらしいと言えばらしい書きぶりだが、確かに触れないわけにはいかなかったのだろうと思う。

 池内紀さんの生前最後の作品となった同書については、私も既に一文を草しているが、一連の経緯については、多少、恵さんから伺っていたこともあり、大きな驚きはない。ただ二つ、胸を衝かれたことがあった。

 ひとつは、池内紀さんが、「瑕疵の多い」書物を世に出し、SNSを中心に厳しい非難を受けたことで「失意のうちに亡くなった、あるいはこのことを苦にして亡くなった」わけではない、という恵さんの分析である。

 ある新聞の連載コラムで新書の記述の不備を認めた紀さんだったが、その翌週のコラムではいつもの調子を取り戻していたというのだ。

 これは直接伺っていなかった話で、別の連載の例なども採りあげ「(紀さんは)へこたれていない」との一文に、私もいくらか胸のつかえが下りたような気持ちがした。

 そしてもうひとつ、こちらは恵さんへの異論になる。

 『ヒトラーの時代』への指弾が始まった後、私を含む幾人かが紀さんを擁護する手がかりとした同書の「あとがき」について、恵さんは「ヒトラーになぜドイツ人が熱狂したかを解明することが、あたかも自分のライフワークであったかのように本人は記しているが、私は信じていない」と両断している。

 確かに、明確な発言として「そのような問題意識も論理も、父が若く元気だった頃には聞いたことがない」のは事実なのだろう。

 しかし、池内紀さんはモノ書く人であった。その事績の中におのずと問題意識は立ち現れる。

 だからこそ私は、池内さんのアンソロジーの最後に、「偉大なるディレッタント」エーゴン・フリーデルの生涯を描いた『道化のような歴史家の肖像』から「死の威嚇のもとに」を置くのである。

 この、同書の最終章は、一九三三年から一九三五年にかけての、ヒトラー首相就任、ナチス独裁開始、ユダヤ人弾圧の始まり(ニュルンベルク法成立)といったトピックを駆け足に概観しつつ、ユダヤ人歴史家に迫る「死の威嚇」を淡々と、しかしひりつくような筆先で描写していく。

「その死の判決を聞きとるために、とりたてて鋭敏な歴史感覚が必要というのではない」

 一九三八年三月十三日、ついにオーストリアはドイツに併合される。オープンカーに乗ったヒトラーがリング通りをパレードし、街は鍵十字の旗で埋まる。

「過激なナチ党員のみが、これ見よがしに死の威嚇をふりまいたのではないだろう。狂信的な少数者がユダヤ人より人間の尊厳、ひいては人間としての存在を奪ったわけではなかった」

 オーストリア併合のわずか三日後、『近代文化史』の著者にして「笑う哲人」フリーデルはSSの来訪を受け、ウィーン一八区ゲンツ通り七番地のアパート四階から身を投じ六〇年の生涯に幕を下ろす。

「(カール・クラウスが検証しているように)全ドイツ、また全オーストリアが、さらには世界全体が、ナチスのやり方にうなずいた(たとえあちこちで、ごくおざなりに、遺憾の意が表されたにせよ)」

 憂いと怒りが色濃く滲む文章を追うたび、やはり池内さんは心の深いところに、「ドイツ文学者を名のるかぎり、ヒトラーの時代を考え、自分なりの答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか」(「あとがき」『ヒトラーの時代』)という想いを忍ばせていたのではないか、と思うのだ。

 当然これは「老人が突如考えを変え、過去に遡って自らの思想を捏造」するような話とはまったく異なる。

 もちろん、本当のところは永遠に謎だし、そんなことを明らかにしたいとも思わない。ただ、自らを深く律し、旅と酒を愛した希代の名筆が幽冥の境を隔てられたことをひたすら惜しむのみである。

 追悼文中、「父」「本人」、そしてほんの数カ所だけ登場する「池内紀」という突き放した三人称の使い分けに、恵さんの悲しみ、そしてモノ書く人としての覚悟と矜恃を見る。

 寂しい。改めてお悔やみを申し上げたい。


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