舟を読む
(2019/05/23記)
三浦しをんさんの『舟を編む』(光文社文庫・六七〇円)はお読みになりましたか。舞台は、とある出版社の辞書編集部。多くの苦難を乗り越えながら十五年の歳月をかけて一冊の辞書を編纂する人々の葛藤と幸福を描いた群像劇の冒頭に、主人公の一人で、「人生を辞書に捧げたと言って過言ではない」荒木公平が初めて辞書を意識したのは『岩波国語辞典』(三二四〇円)がきっかけだった、という一文があります。
荒木と同じく岩波で辞書デビューした経験を持つ私は、すぐさまこの物語の虜となりました。三浦さんが表題に掲げた「舟」とは言葉の海に乗り出す辞書の見立てであり、同書はそれに関わる人々の航海記でもあったのです。
光文社は『舟を編む』の二年後、『三省堂国語辞典』(三一三二円)の編集委員である飯間浩明さんの『辞書を編む』(光文社新書・八六四円)を世に送ります。
同書は国語辞書の編集(編纂)に当たっている当事者が、今まさに進んでいる辞書の改訂作業をたどりつつ、編集方針の立て方、用例の集め方、収録する用語の選び方、解説の書き方などを語ってくれるという稀有な書物で、わずか一語の採録のために、どれほど膨大な手間が掛けられ、如何に繊細な判断が働いているかを教えてくれます。
次に今野真二さんの『辞書をよむ』(平凡社新書・八六四円)を読み進めます。日本語学者である今野さんは、我が国を代表する国語辞書のひとつである『広辞苑』(岩波書店・九七二〇円)の凡例を入り口に、現代から明治、そして古辞書へと歴史を遡りながら、日本語がどのように成長・拡大してきたか、外来語である中国語やポルトガル語とせめぎ合い、自らの語彙を豊かにしてきたかを検証していきます。
本書には、祖父も父も辞書編集者だったという筋金入りの国語学者・松井栄一さんが編集委員を務めた『日本国語大辞典』(小学館)についても一章が割かれており、松井さんの著した『日本人の知らない日本一の国語辞典』(小学館新書・七五六円)を併せ読むと、先人たちのセンスと慧眼と飽くなき執念に、ただただ脱帽させられるばかりです。
では世界にはどれほどの言葉があって、どのような辞書があるのだろうと調べてみると、さすがですね、辞書の老舗三省堂から歴史学者の石井米雄さんの手になる『世界のことば・辞書の辞典』というガイドブックが出ていました。しかも「アジア編」(品切中)と「ヨーロッパ編」(三四五六円)があって、後者は英仏独伊蘭露といった有名どころからロマンシュ語、ブレイス語、古典ギリシャ語に至るまで、三五の言語(族)の辞書・辞典、入門書、文法書の情報を網羅しています。正直、これほどの書籍を編めるのは、世界広しと言えど日本くらいではないでしょうか。
辞書をめぐる人々の物語から、辞書とは何かという問いに歩みを進めると、多くの人々が叡知を振り絞って産み出す「辞書」という書物への興味がいよいよ高まってきます。辞書を読むこと自体は、一九九〇年代半ばに作家の赤瀬川原平さんが『新解さんの謎』(文春文庫・五九四円)で先鞭をつけたことがあります。
今も「新解さん」の愛称で根強い人気を誇る『新明解国語辞典』(三省堂・三二四〇円)の、独特の情緒を帯びた解説文に光を当てた同書がベストセラーとなったことを覚えているかたも多いでしょう。
最初にご紹介したいのが倉嶋厚さんと原田稔さんの編著『雨のことば辞典』(講談社学術文庫・一〇一五円)です。「雨兆す」「一簑の雨」「雨香」「柄漏り」「御山洗」……と五〇音順にページをめくるだけで、二十四節気に恵まれた風土への畏敬とそれを繊細に表現する語感を持つ日本語の美しさに胸を打たれます。枕元に置いて、眠りに就く前のほんの数分読み進めるのがお勧め。同じ著者陣による『風と雲のことば辞典』(同文庫・一二九六円)も本当に良いですよ。
一転、春原弥生さんの『宝塚語辞典』(誠文堂新光社・一七二八円)は、これまで宝塚歌劇にあまり関心がなかったという人でも面白おかしく読めて、いつのまにか観劇のマナーや予備知識が得られる優れもの。本の惹句にもあるようにイラストと豆知識満載なので、「トート閣下のカツラ」が各スターによってどう違うかも一目瞭然です。
「月組ジャンプ」や「花組ポーズ」、「ブスの25箇条」「ペガ子」など気になる言葉もてんこ盛りで、驚くやら感心するやら。巻末には一九八九年から二〇一七年までの本公演の演目と各組のトップスターの任期などをコンパクトにまとめた表がつくなど、じつはデータブックとしても秀逸です。
「コレはけしからん!」「いや、面白いじゃないか!」と、出版された直後から世間の顰蹙と注目を一身に集めた二〇〇〇年代初頭の隠れたベストセラーといえば、永田守弘さんの『官能小説用語表現辞典』(ちくま文庫・八四二円)です。よくぞまぁこれだけ集めたものだと、感心すること請け合いの二二六九語。文庫化されたときは思わずニヤリとしてしまいました。
女性器、男性器、声、オノマトペ、絶頂表現の五部からなり、「官能小説ならではと思われる性的表現」が用例とともに紹介されています。「朝顔」「舟底」「寒ブリ」「熱帯花」「一輪挿しの花瓶」「下草」「胴田貫」「クレーン」……。いやはや、エロに吶喊する人間の想像力には際限がありません。
もう少し実用的な辞典はないの、という方には下村忠利弁護士が執筆した『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』(現代人文社・一九四四円)をお勧めします。
本書が目指すのは「被疑者・被告人との正確なコミュニケーションと信頼関係を築く」ことで、そのために「最低限知っておきたい用語」が一三〇〇以上収録されています。
そんなこと自分には関係ない、と思ったあなただって、もしかすると明日「チーピン」や「ゴンベン」に遭うかも知れないし、「ホンチャン」の「太夫」や「月光仮面」にやられるかも知れません。そうなる前に、ぜひ本書をめくってみてください。
フィルムアート社は映画の脚本や演技・演出、映画理論などの書籍で知られる出版社ですが、その延長線上にユニークな類語辞典を出しています。著者のアンジェラ・アッカーマンはカナダのヤングアダルト作家で、自身の執筆経験を活かした『場面設定類語辞典』(品切中)や『性格類語辞典』(一四〇四円)、『トラウマ類語辞典』(二三七六円)などを刊行しています。
わけても『感情類語辞典』(一七二八円)には、先に紹介した『三省堂国語辞典』の編集委員、飯間浩明さんが推薦の辞を寄せていて注目です。
感情を表す言葉を五〇音順に並べ、それぞれに「外的なシグナル」「内的な感覚」「精神的な反応」「強度の、あるいは長期の感情を表すサイン」「隠れた感情を表すサイン」が列挙されるという構成です。
例えば、人は「緊張」すると、「急な動作」や「ぎこちない動作」をして、「感覚が鋭く」なったり、「最悪のシナリオを考え」たり、急に「話題を変え」たり、「不自然なほど押し黙」ったりするでしょう。全編にこうした人物造形や描写のヒントが散りばめられた本書は、じつは創作に携わる人たちの間で密かに売れている、隠れたベストセラーなのです。
編集者である私が、普段使いに重宝しているのが円満字二郎さんの『漢字ときあかし辞典』(研究社・二四八四円)、中村保男さんの『新編 英和翻訳表現辞典』(研究社・五八三二円)、小学館辞典編集部の『句読点、記号・符号活用辞典。』(二三七六円)という三冊。類書で迷われたらこちらをどうぞ。
さて、辞書としての完成度が高いことは歴然としているものの、日常的に必要かと言われれば首を捻らざるを得ないのが小野正弘さん編の『日本語オノマトペ辞典』(小学館)で、そのお値段なんと六四八〇円! ところが、本書の面白さには他をもって代えがたい味わいがあります。
確かに、「ぶきぶき」が「気力に溢れた様子」や「無愛想なさま」を意味することに驚いたり、長野県の方言では怒って人に当たり散らす人物を「ぶきぶきする人」と表現する、といった、一生に一度も役に立たない可能性が高い知識の数々で悦に入るのは、なかなか難度の高い人生の愉しみかたでしょう。
でも、全編に織り込まれたコラム「オノマトペのもと」や歴史的考察を含んだ解説、「鳴き声オノマトペ」などの充実した附録を見ると、値段だけのことはあると唸らずにいられません。
オノマトペのように意味も由来もわからないながら、普段の生活に溶け込んで使い続けられる言葉もあれば、いつしか人々の記憶の彼方へ消えていく言葉も存在します。
米川明彦さんの『俗語発掘記 消えたことば辞典』(講談社選書メチエ・一七八二円)には、そんな言葉たちへの愛惜がこもっています。話し言葉の中でも公の場や改まった場では使いにくい俗語ですが、その分、急速に人口に膾炙したり、時代の変転や技術の革新によってあっさり忘れ去られたり、ということが起こります。
大昔使った「薩摩守」、かろうじて聞いたことがある「テンプラ」、まったく覚えのない「エンゲルスガール」「マメページ」など、その成り立ちや廃れた背景、それ自体が日本人の創造性とアレンジ能力の高さを物語っているように思われます。
様々な辞書に目を通したら、あらためて辞書を作った人の言葉に耳を傾けてみましょう。『日本国語大事典』の元編集長・神永曉さんの『辞書編集、三十七年』(草思社・一九四四円)は、『舟を編む』を地で行くような、山あり谷あり辞書一筋編集者の回想録です。
凄みのある体験談というだけでなく、失敗や蹉跌が率直に語られ、なにより辞書にまつわる数多くの書籍が紹介されているところが魅力です。ぜひ、本書から更なる辞書をめぐる読書の航海に出発してください。
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