山崎塾修了

(2017/5/16記)

 山崎正和さんが15人の若き学徒を集めた研究会をスタートさせたのは2015年9月のこと。

 以来、1年7ヶ月、計8回の報告会が開催され、厳しくも建設的な議論が繰り広げられた。正式名称は「知の試み研究会」、しかし関係者はみな「山崎塾」と呼んだ。

 集まったのは年代こそ近しいものの、専門分野はバラバラの若者たちで、普通に考えれば共通言語も持たないレベルの異業種交流会。

 毎回2、3名の報告者と5名前後の討論者が事前に山崎さんから指名され、報告、討論の後、他のメンバーを交えた共同討議を行った。

 報告者には、研究会の1週間前には討論者にレジュメを送付することが義務づけられた。それはそうだろう。自分とは縁もゆかりもないジャンルの専門家に質問し、議論しなければならないのだから。

 でも討論者は、自分の専門に引きつけたり、純粋な疑問をぶつけたり、みんな手練手管を駆使して報告者に食らいついた。そこからテーマが思わぬ広がりを見せたり、報告者が自身の議論の隙に気づくようなこともあった。

 山崎さんは、若手が自分の専門に閉じこもることのないよう、同世代の異分野の研究者と引き合わせると同時に、将来自分の研究を世に顕すことを意識するよう、研究会に編集者を呼び、議論にも参加させた。

 ある回など、このテーマ、岩波ならどう書籍化する? 講談社ならどうする? と、各社の編集者に質問を投げかけられ、参加した一同が顔色を失う場面もあった。

 元中公の宮さん、新潮社の河野さん、講談社の林辺さん、岩波の馬場さん、ミネルヴァの堀川さんといった斯界の重鎮たち、そして年少とは言え、自分より遥かに豊かな実績を持つ河出の藤崎さん、文春の西さんという気鋭に挟まれた私は、当初、なぜ自分に声がかかったのかもよく分からないまま、身の置き所に困っていた。

 しかし、編集者という生き物は単純きわまりなく、基本、面白そうなものには食いつくように出来ている。私は、15人の携えたテーマの魅力、それに取り組む姿勢に魅了され、いつしかこの研究会に一生懸命になっていった。

 時々、山崎塾長の傍らを、塾頭のような立場の先生が固めることがあり、それも大いに議論の幅を広げ、懐を深くした面がある。

 早い時期に五百旗頭真さんがお見えになった回は少し緊張感もあったが、ノリの良い三浦雅士さんと鷲田清一さんが加わったときは議論も大いに盛り上がったし、田所昌幸さんと阿川尚之さんの深い教養の前には専門非専門の壁などないに等しかった。

 いろいろな研究会に参加してきた。立ち上げから関わったものもあれば、最後の1回に出ただけという会もある。しかし、山崎塾の終わりには、そうした過去の経験とはまた異なる想いがわき上がる。

 この土曜日、最後の研究会の締めくくりに、山崎さんは塾生たちに以下の言葉を贈った。

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 皆さんはそれぞれの分野でこれからも書いていくことでしょう。ふたつのことを言っておきたい。

 まず、どんなに深く穴を掘っても、その中に埋没するな、ということです。もちろん専門性は大事です。深く掘り下げていく必要はある。しかし、常に頭の隅に置いておいてほしいことは、地図の中の自分の立ち位置です。自分のやっていることが、どんな意味をもつのか、常に俯瞰していてほしい。

 と同時に、もうひとつ。一般社会に向けて表現していくつもりなら、皆さんは「期待されない101人目」になりますよ、ということです。どんな職業であれ、100人の集団がいるとすれば、たいてい101人目が必要とされる。もっといてもいいのです。

 でも、表現者は違う。すでにいる100人で十分だと誰もが思ってる。表現を生業とする人間には、それ以上は期待されていない。そこへ「こういう者もいます」と出ていくには、図々しさが必要です。逆に言えば、謙虚さです。今までの100人にはないサービスをしなければなりません。その覚悟をもって、「101人目」であってください。

 これが私の遺言です。

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 そう言えば、編集者、そして本も同じことだよね、と講談社の林辺さんが飲み会の席で呟いた。すでに本は山のようにある。そこに新刊を加えることの意味を編集者は問われる。だから、俺たちも覚悟を持って本を作っていかないとね。大先輩にしてこの言である。若輩はただただ精進あるのみ。

 寂しさはあれど、このまま終わる絆でもないだろうという確信もあって、割と前向きな気持ちで迎えた月曜日。微かな余韻を楽しみつつ、さぁ、新たな著者とゲラに向かおう。

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