戦争と外交と日本人の気分
(2018/01/11記)
なんだかスゴい勢いで世の中が動いてますね。
誰がどう動かしてるのかよくわからないところは、正直、気持ち悪いんですが、とにかく先の総選挙では与党・自民党が大勝し、憲法改正の発議がかなり現実味を帯びてきました。
先月、トランプ米大統領が初来日して、安倍首相と日米同盟の深化を高らかに謳いあげたことは記憶に新しいところ。とりわけ重要な話題となった北朝鮮と核兵器をめぐる強い言葉・厳しい態度は、日本よりもむしろ周辺各国に大きなインパクトを与えたことでしょう。
いつ終わるともない「長い戦後」を生きてきた私など、日々の暮らしは何一つ変わらないのに、気がついたら突然「戦前」に立たされていたような、居心地の悪さを感じます。ほんの数年前まで、近隣国が発射したミサイルが、数十分で東京に降ってくる可能性なんて考えもしませんでしたし、それと同じくらい、憲法改正が具体的な政治課題にあがってくるとも思ってませんでした。
勿論プロフェッショナルの中には見通していた人はいるのでしょうが、大方の皆さんは私同様「いつの間にこんなことになってしまったんだ」と思っていらっしゃるのでは?(苦笑)
仕事柄、学生さんや読者の方から、日本の政治外交を考える際に「何から読み始めたら良いでしょう」と聞かれることが少なくありません。そんなとき、入門の一冊にお勧めしているのが山本七平さんの『空気の研究』(文春文庫:五〇〇円)です。
「空気の研究」「水=通常性の研究」「日本的根本主義について」の三部から成る本書が採りあげるのは、まさに「空気読めよ!」と言うときの空気で、場や世論を支配し一定の方向に導き、個人としてそれに抗うことが非常に難しい雰囲気や大きな流れを指しています。
山本さんは付和雷同しがちで、同調圧力に弱い日本人のメンタリティの源を探るうち「空気」に行き当たり、独特の日本人・日本社会論を展開したわけですが、中国の共産党大会やトランプの選挙キャンペーンなどを見ていると、じつはこれ、規模の差こそあれ、どこでも似たようなことは起きていて、結構、普遍的な話に思えてきます。それを頭に入れておくと、多くの事柄が意外とすんなり読めてきて、世界や歴史を見る上での補助線になってくれます。
たとえばタックマンの『八月の砲声』(ちくま学芸文庫:上下巻とも一五〇〇円)を読むと、「これも空気だなぁ」と思わざるを得ない場面に何度もぶつかります。誰も戦争など望んでいないにも関わらず、ドイツ、フランス、ロシア、オーストリアなどプレーヤーたちがそれぞれの「お家の事情」から打った手が、事態を悪い方へ悪い方へころがしてしまい、あの凄惨極まりない第一次世界大戦を招来してしまう様を見ると、なんだか人間が可哀想になってくる、って結局自分のことでもあるんですけどね。
第一次世界大戦については開戦一〇〇周年となる二〇一四年前後に素晴らしく研究が進んだので、そちらの成果をご覧いただくとして、その終戦から第二次大戦の開戦まで約二十年に及んだ戦間期、どのような「空気」がヨーロッパの国際政治を動かしたのか見る上で絶対に外すことが出来ないのが、E・H・カーの『危機の二十年』(岩波文庫:一二六〇円)です。
戦争が終わると、その反省から創設された国際連盟を中心に、理想主義が勃興し、それは軍事力こそが国際政治における最終的・究極的なパワーだとするリアリズムの考え方と相剋を来します。
モデルは一九三〇年代ながら、権力の本質、政治と経済の関係、国際法や条約など、国際政治の基本的論点が見事に押さえられていて、現代社会を分析する際にも欠かせない視座を得ることが出来ます。
しかし、第一次大戦の敗戦国に対する苛烈なペナルティはドイツに鬱屈と憤懣を蓄積させ、それは民主主義の手続きに則った選挙の中からナチスの台頭を許してしまいます。ナチスと軍との関係については英国の軍事史家リデルハートが記した『ヒトラーと国防軍』(原書房:二八〇〇円)を、その後、ナチスがどのような「空気」のなかに国民を巻き込んでいったかを知るには長谷部恭男ほか『ナチスの「手口」と緊急事態条項』(集英社新書:七六〇円)が手がかりとなるでしょう。
残念ながら現在品切れ中とのことですが、みすず書房から刊行されていたウィラー=ベネットの『国防軍とヒトラー』(上・下巻)もナチスの「空気」に絡め取られていく政治家や軍人の悲哀や滑稽を描いて余すところのない名作です。
同時期の日本では、近衛文麿が『清談録』(千倉書房:三二〇〇円)を刊行していました。ここには若き政治指導者として期待された青年華族・近衛が、第一次大戦の賠償問題を話し合うパリ講和会議を見聞してその体験を論じた「英米本位の平和主義を排す」が収められています。
ドイツが大戦の原因であることは明らかにしても、ドイツが不満を鳴らし変革しようとした、そして英米が守ろうとした戦前の国際社会秩序は果たしてベターなものだったのか、と近衛は問いかけます。あれあれ、こんな議論を私たちは後々、どこかで聞くことになるんじゃありませんでしたっけ?
ひとたび社会を押し包み、強い流れを形作った「空気」に抗することは容易なことではありません。皮肉にも近衛は後に首相になってから、そのことを痛感することになるのです。
猪瀬直樹さんの名編『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫:六四八円)は、近衛内閣の下、各省から選び抜かれたエリート官僚たちが厳密な数字と状況設定のなかで行った対米戦争シミュレーションの顛末を描いた息詰まるノンフィクション。
「えっ、昭和一六年には必敗の結論が出ていたのに戦争しちゃったの、日本は!」と、今だったら言えるんですけどね。近衛も「やっぱやめとこう」とは言えなかったんでしょう。
これまた品切れ中ですが同じ中公文庫から上下巻で出ていた同じく猪瀬さんの『黒船の世紀』も必読です。太平洋戦争前に日本でも米国でも「日米もし闘わば!」という調子のシミュレーション小説が膨大な数刊行され、それが非常によく読まれ、結局、両国民の間に「日米必戦論」のようなものを醸成してしまうという、まさに目前で「空気」が生まれる瞬間を描いた作品です。
では、「空気」の呪縛を乗り越えるために私たちはどうすれば良いのか。ひとつには、より大きな、そして懐の深い構想を持つことでしょう。国際政治学者・高坂正堯さんの『海洋国家日本の構想』(中公クラシックス:一五五〇円)は、冒頭に氏の論壇デビュー作である「現実主義者の平和論」を置き、表題作を巻末に配する編集の妙も含めて、玩味すべき一冊です。
国際的な役割を積極的に果たしつつ、海洋、経済、技術(今ならソフトパワーなんでしょうね)をもって日本の未来を指し示します。高坂さんの主張の明晰と確かさは、宮城大蔵さんの『増補 海洋国家日本の戦後史』(ちくま学芸文庫:一一〇〇円)といった、その系譜に連なる書籍からも跡付けられます。
そして「空気」の呪縛を払うために、もうひとつ欠かせないのが、揺るぎない歴史観でしょう。読書という追体験行為を通して歴史に学ぶことは、独りよがりな物語に酔わないための必須の作業です。
よく「歴史は繰り返す」と言いますが、じつはそれは間違いで、本当は「歴史は愚か者の上に再び繰り返す」のです。高坂さんは、それを強く意識して『世界史の中から考える』(新潮選書:一五〇〇円)を書かれていますし、同門である五百旗頭眞さんの時評集『日本は衰退するのか』(千倉書房:二四〇〇円)にも、その感覚は通底するものがあります。
あれこれ考えてるつもりでも、生まれたときから所与のものとして平和を享受してきた私など、見る人から見ればただの平和ボケということになるのかも知れません。それだけに、平和とは何か、いま私たちを包んでいる「空気」はどんなものか、常々意識しておきたいところです。
篠田英朗さんの『平和構築入門』(ちくま新書:八四〇円)やマイケル・ウォルツァーの『戦争を論ずる』(風行社:二八〇〇円)、藤原帰一さんの『新編 平和のリアリズム』(岩波現代文庫:一〇〇〇円)は、それぞれ特徴のある平和論ですが、一貫しているのは、厳しい現実の国際政治と内政がどのように折り合い、対峙していくかに深く注意が払われていることでしょう。
如何にバランスの取れた思考が大事であるか、そして「空気」に捉えられたとき、私たちがどれほど容易にそれを失うか、を示唆しているように感じられてなりません。
安保法制の議論が喧しい時期、細谷雄一さんが世に問うた『歴史認識とは何か』(新潮選書:一四八〇円)や、軍事作戦を行う際の米国の行動原理を計量的に解き明かすことに挑んだ多湖淳さんの『武力行使の政治学』(千倉書房:四二〇〇円)、保守主義者の系譜を辿りつつ、その現代的変容の過程を探った宇野重規さんの『保守主義とは何か』(中公新書)など、立ち位置や方法論は違えながらも、積極的・多面的に平和の前段を探ろうとする試みが書籍として刊行され続けている日本は、まだまだ健全な国家であると任じて良いのではないでしょうか。
フェアに陳列する書籍のすべてを紹介することはできませんが、いずれも、いささか不透明感を増しつつある、日本の今後を考えるための手がかりとなる本を選んだつもりです。至らぬ私の解説のミッシングリンクを埋めるように、読み進めてみてください。