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ささやかな願い SS0027
十月二十一日 2019/10/21
──作家になりたい。
ガラス越しに流れゆく美しい風景を見ながら、私はため息をこぼす。
幼き頃から物語に親しみ、高等学校に入校してからは、物を書く仕事に就きたいと明確に強く願うようになった。
血湧き肉躍る冒険小説。名探偵が不可解な謎に挑み、名推理で事件を解決する探偵小説。多くの英雄が八面六臂の大活躍をする歴史時代小説。空想が無限大に広がる科学小説など。
書きたいことは山ほどあり、ペンを持てば、自然と胸から言葉はあふれ出てくる。
大学も文学部へ進んだのは、少しでも作家になる近道だと思ったからだ。
一部の天才を除き、作家となるためには、自己の内面と真剣に向き合い、並々ならぬ努力と修練が必要なことは分かっている。
その積み重ねた汗と涙の上に、さらに運や縁も必要なのだろう。
またこのご時世、作家になったとしても、生きていけるのはわずか一握りの人々なのだ。
作家になりたいという心の燃えたぎる思いを両親に告げた時、父は反対した。
「物書きで食っていくなんて夢を持つのは、身の程知らずだ。自分自身を不幸にするぞ。ただ……目指すのなら……諦めるな」
母は険しい顔の父をなだめ、不安げに呟いた。「あなたが本当にその道を望むのなら、母さんは応援するけど……」
母のことを思うと、狂おしく愛しい想いが、せきを切ったように身体中にあふれ出す。
児童雑誌を最初に買ってくれたのは母だった。興奮して頁をめくる自分を見て、それからも両親は、多くの本を与えてくれた。
めくるめく幸せな時間だった。本の世界にいるときは、古今東西の英雄になり、名推理を披露し、世界を駆け巡り、あまたの友と愛する人を得た。自分がそうであったように、多くの人に夢と希望を与える物語を、書いてみたいと思った。
戯れて短い話を書いてみた。父も母も驚き大げさにほめてくれた。今思えば、もっと両親の喜ぶ顔が見たかったのだと思う。
だが、だが──。
その道は、永遠に閉ざされてしまった。
それとなく別れの挨拶をした時、母は号泣した。
「わたしの、せいなのね……」
有機ガラス越しの景色が、かすんでゆく。
愛するふるさとからみるみると離れてゆく。
運がなかったのかもしれない。もし文学部でなければ……。もう少し若ければ……。
一年半前の昭和十八年十月二十一日、降りしきる冷たい雨の中、明治神宮外苑競技場を、勇壮な音楽に合わせて行進した。
学徒出陣──その時に自分の運命は、決まってしまったのだろう……。
狭い隼の操縦席から見る春の空は、青く澄み渡り、棚引く雲がにじんで見える。
二百五十キロ爆弾を抱いて知覧飛行場から飛び立ち、二時間が過ぎた。先頭の隊長機が翼を揺らす。いよいよ特攻だ。
──英雄や名探偵でなくてもよかった。
両親の愛に包まれて育ち、多くの友に囲まれ、愛する人と出会い、家庭を持ち、子供を授かり、幸せな家族となり、やがて年老いて、多くの笑顔に見守られながら、この世を去る。
そんな平凡でありきたりな人生を歩みたかった。そんな物語をつづりたかった。
ささやかな願いは、もうかなうことはない。
胸にあふれんばかりの物語を抱き締めながら、手にした操縦桿を握り直して呟く。
「父さん、母さん、ごめんなさい……」
私は、作家に──なりたかった。
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