協力内閣運動考察

第二次若槻内閣

31年、第二次若槻内閣は満州事変の対応に追われる中、安達謙蔵内相が造反し、閣議をボイコットした上に内務大臣の辞表も提出しなかったせいで、閣内不一致で総辞職した。安達は立憲同志会時代からの最古参で、民政党の重鎮であるが、そんな彼が何故民政党内閣を破壊する行為に至ったのか、昭和史の謎の一つであった。

安達の造反の直接の理由は、安達が推し進めた協力内閣運動(政友会・民政党大連立内閣)が若槻首相によって反故にされたからであるが、果たして個人のメンツの問題だけで民政党内閣を破壊するなどという単純な話なのか。これを解き明かすには民政党、その前身である憲政会がどのような政党で、その関係者はどのような人々がいたのか振り返らなければならない。その中で、民政党が抱える問題が見えてくるのである。

1. 憲政会の人々

第二次大隈内閣末期、与党三派(立憲同志会・中正会・好友倶楽部)が合同し、憲政会が創立された。その中心は、大正元年、桂太郎が創立した立憲同志会であった。桂は政友会との情意投合による桂園時代に限界を感じ、元老や政友会に代わる政治勢力を結集して、新しい政治を行おうとした。その政治基盤として桂新党=立憲同志会を創設した。桂は軍部大臣現役武官制の改正や軍政改革、外交刷新、都市政策、社会政策、官制改革にも意欲的であった。それを実現するために若手官僚を中心に政権を組織し、新党結成の方針を示した。仮に同志会が順調に軌道に乗ったならば、大正元年に二大政党制は確立していたかもしれない。しかし桂の夢は大正政変によって打ち壊された。

この頃、桂が目をかけていたのは駐英大使として名を馳せていた加藤高明である。加藤は政治的に無色(政友会でも藩閥でもない)に近く、三菱財閥の岩崎家と婚姻関係にあった事から、その背景に潤沢な資金源があった為に、桂は絶大の信頼を寄せていた。桂は加藤を外相に起用するだけでなく、後継首相に推薦していたほどであった。自然、加藤は同志会の後継者とて急浮上する。同志会内には桂との個人的な関係から入党していただけの政治家(後藤新平などが際たる)もおり、それらを牽制する為に加藤は自らの派閥を形成し始める。

特に近しい存在になったのは、大蔵省以来旧知の仲であった若槻礼次郎である。若槻は帝大にて首席を譲らなかった天才であり、大蔵官僚として順調に出世していた。若槻は同志会の会計監督を務め、党内を仕切っていた。加藤は若槻を信頼し、様々なことを相談していたという。
そんな若槻に引き立てられたのが浜口雄幸である。浜口は大蔵省の中においては傍流にあったが、若槻はその才を見抜き、中央に引き立てた。同志会入党後のある日、加藤に食事に誘われた浜口は、その場で外交や内政、財政について五時間も問い質されたという。この試験に合格したことで、浜口もまた加藤の信任を得た。
江木翼も加藤を支えた官僚政治家である。桂に才を見込まれ、39歳の若さで内閣書記官長に抜擢された法制官僚であり、新党結成の覚書や綱領、政策立案も一手に担っていた。同志会幹事として党務に励む中で、加藤と親しくなっていた。加藤の演説のほとんどは江木の草稿であると言われている。

一方、憲政会に入党はしなかったものの、憲政会と強い関わりを持つ事になる官僚たちもいる。官界に隠然たる影響力を持ち、後に日本の黒幕、キングメーカーとして知られる伊沢多喜男である。
第二次大隈内閣が誕生すると、大浦兼武系内務官僚であった伊沢は警視総監に抜擢され、内務省の人事に介入し、内務省において伊沢系官僚を形成していった。大隈内閣の選挙においては政府に協力姿勢を示し、政友会系候補者の選挙違反を取り締まり、選挙戦に勝利に貢献した。
後の憲政会創設の際には立憲同志会と大浦系官僚の調整に奔走し、その創設に貢献した。しかし伊沢は憲政会に参加せず、党員にもならなかった。その理由を伊沢は

日本の将来は堅実な政党の発達がなくてはならない。自分としては、党外に立って、必要な援助を与えて、完全な発展に寄与することが出来る

と語っている。
伊沢は藩閥官僚や憲政会に影響力を行使できる立場を取り、党外から影響力を発揮する道を選んだ。16年には貴族院議員の勅選議員となり、内務省を基盤として政治活動を行う官僚政治家として政界に君臨した。

もう一人の重要人物は幣原喜重郎である。
外務省きっての国際協調派であり、ワシントン会議締結に尽力し、二度の外務大臣、戦後は総理大臣も経験する、大正・昭和初期時代を代表する外交官である。幣原と憲政会の関係は、三菱財閥の岩崎家の末娘と結婚し、加藤高明と縁戚関係になったことで築かれた。加藤高明を義兄とし、三菱をバックにする、エリート外務官僚、それが幣原のパーソナリティである。また、浜口、伊沢とは帝大同期の関係にある事から、三者は緊密な関係を築いていた。
このように憲政会と深い関係にある幣原であったが、伊沢同様に憲政会に入党していない。当時の官界の常識として、外交の継続性を保つために、外交官は政党と無関係な人物であるべきという考えが根強かった。幣原もそのイデオロギーを有しており、一貫して政党入りの誘いを謝絶している。

以上のように俯瞰すると、憲政会総裁加藤高明の側近は党内外の官僚系政治家によって固められている。彼らは緩やかな横の繋がりを構築し、官僚派と称されるようになる。
一方、政党を出自とし、衆議院に基礎を置く党人達の中心人物が安達謙蔵であった。安達が特に力を発揮したのは選挙戦であった。安達は選挙の当選ラインを読む事に長けており、得票を効率的に配分し、候補者を調整し、多数の党員の当選に結びつけ、第二次大隈内閣下の選挙戦を大勝利に導いている。この事から、徳富蘇峰をして選挙の神様と呼ばしめている。国政選挙の洗礼を経た代議士たちは、安達を中心に緩やかな横の繋がりを構築し、党人派と称されるようになる。安達は党人派をまとめ上げて加藤憲政会を支えるのであった。

2. 苦節十年

多くの政治家が加藤に心服した理由は、加藤の資金力も理由の一つではあるが、加藤が英国式の政党政治を志していたからだ。加藤は駐英大使として英国の政治・文化を長らく観察していた。
英国の政治は民主主義と尊王が調和していると紹介し、英国は君主と民衆が接触する機会が多く、過度に威厳を重んじず、国民は王室に畏敬ではなく敬意を持っていたと伝えている。加藤は、そんな英国式立憲君主制を理想とし、日本において実現しようと考えていたのである。
加藤が特に感銘を受けたのは、英国の保守党と自由党からなる二大政党制であった。その互いに競い合う様を以下のように高く評価している。

政府党反対党互いに堂々旗鼓の陣を張り、切磋琢磨一日として息まざるは、実に羨ましきことに有之候

加藤は政友会に代わる第二党の必要性を認識し、二大政党制実現を課題とした。同志会を「陛下の在野党」になぞらえ、二大政党の一翼を担う政権政党に育て上げようとしたのだ。

しかし、加藤に率いられた憲政会の道のりは険しいものであった。
17年1月、野党の立場で臨んだ総選挙にて、憲政会は67議席を減らして119議席になり、党務を支えてきた浜口が落選するなど、大敗を喫した。なお、議席を失った浜口ではあるが、議会会期中は憲政会事務員として毎日のように出入りし、党務に励み、深夜まで政策を勉強する毎日を送った。この姿勢に加藤は深く感心し、より信頼を得るに至っている。しかしそのような党員は稀であり、憲政会の党員たちは気の抜けた風船玉と評されるほど気落ちし、ここに憲政会の長い野党生活、苦節十年が始まる。
寺内内閣は憲政会を切り崩すために若槻ら党幹部連に公職のポストをチラつかせ、一時は加藤が脱党して在外大使に転ずる噂まで立った。未だ党を掌握しきれていないと実感した加藤は、憲政会を責任ある反対党に育て上げる決意をした。その為に憲政会は、ただ政府の政策に反対するだけでなく、政策に対しては対案を掲げていった。政友会と憲政会の政策の差異をつける為に、当時度々争点となっていた普通選挙導入を掲げるに至った。

在野党として力をつけつつあった憲政会ではあったが、政権は寺内、原、高橋、加藤友、山本、清浦と渡り、一向に加藤に回ってこなかった。
首相奏薦権を持つ元老西園寺公望が加藤の外交政策(特に、対華二十一か条要求)に対し不信感を持ち続けた為であった。加藤も自らが関わった対華二十一か条については固執し、政府の外交政策に対し、時には対外強硬的に批判を繰り返していた。しかし、西園寺の不信が明らかになりつつある中、ついに加藤は対華二十一か条の弁明を控え、幣原の提唱する対中内政不干渉、国際協調、条約上認められた権益擁護という穏健な外交方針に転換した。

24年、清浦内閣下の総選挙で憲政会が衆議院第一党となった事で大命は加藤に降下し、ようやく苦節十年に終止符が打たれた。長い野党生活の中、加藤は党指導体制を確立し、政策立案能力も十分なものとなっていた。
加藤は西園寺の期待に応えて、普通選挙法を成立させ、行財政整理を行い、幣原外交を採用して対中関係を再構築し、宇垣一成陸相と協調して軍縮を実現するなど、辣腕を振るった。そんな加藤の手腕に西園寺も「本当の紳士」と評するに至った。

3. 若槻総裁時代

加藤の政権運営は見事なものであった。政党政治家としては原敬に並ぶところがあり、加藤憲政会の存在によって、日本に二大政党制が実現するに至った。しかし加藤に残された時間はなく、26年、議会会期中に帰らぬ人となった。
伊沢は加藤と公私共に親しく、相撲観戦を共にすることもあった。その死に際して

施政方針を獅子吼してついに議政壇上に倒れた加藤高明伯の死こそ実に政治家として悲絶壮絶の最後であったと言わねばならない

と追悼している。加藤に代わり憲政会総裁となったのは若槻であった。伊沢は若槻に対しては以下のような低い評価を与えている。

聡明にして自己を知り野心を起こさない。世人は才人と思い、あるいは軽薄才子の如く誤解するけれど、氏の如く正直一面、道念堅固の人は少ない。ただあまり物事を知り過ぎ、智者であるから、勇気には乏しい感じがあった

若槻総裁がこのような低評価を受けるのも仕方がない。それほどまでに加藤総裁は強力な総裁であった。加藤は幹部連と資金力を背景に上からの専制を敷いていたのだ。しかし若槻には加藤ほどの政治力はなく、資金源となる財閥もない。それにも関わらず普通選挙制によって選挙に莫大な政治資金が必要となった。
そこで台頭するのが集金能力を持つ有力政治家である。財閥と関係のある仙石貢、山本達雄、冨田幸次郎は政治資金を用意出来る事から、発言力を増していた。更に幣原も財閥との関係上、指導者候補として目されるようになる。
このようにして若槻の指導力は相対的に低下していった。

総裁が弱体化する中で台頭してきたのが江木と安達である。
江木は党の知恵袋として信頼され、枢密院や貴族院の連絡調整、政策立案、他党との折衝まで担う、能吏であった。安達は選挙指導と党勢拡張に長け、選挙戦を戦い抜いた党人たちの総裁として君臨した。今まで加藤総裁が一手に引き受けてきた選挙指導、党資金調達、政策立案や他勢力との折衝、これらは幹部たちに委ねられるようになる。そして党員たちは、より有利に選挙を戦う為に、豊富な資金や選挙指導者を頼り、派閥が構成されてゆくのであった。

4. 民政党誕生

大正末期の政界は政友会が革新倶楽部を吸収したことで憲政会・政友会・政友本党の議席が伯仲する三党鼎立の様相を呈した。伊沢はこの状況を打開する為に政友会と政友本党の分断を進め、憲政会と政友本党を提携を基礎とする憲本連盟に着手していた。
憲本連盟は終始憲政会ペースで進められ、両党が合同して新政党となる話にまで発展した。両党合同となれば衆議院の過半数を制する大政党となる。

しかし若槻内閣は台湾銀行救済問題で下手を打ち、枢密院を硬化させ、ついには総辞職に追い込まれた。この顛末に伊沢は若槻を「再び起つべからざる大失敗を重ねたる政治家」と断じ、憲政会内でも戦闘力無き総裁の烙印を押される事になった。

憲政会が政権を失うという誤算こそあったものの、憲本連盟は実現し、ここに民政党が結成された。問題は新政党の総裁であった。若槻は先の大失態からして問題外である。本党側の床次はその権力の源泉である貴族院研究会の支持を失い、憲本連盟の主導権を喪失していた。
そこで伊沢が白羽の矢を立てたのは盟友、浜口雄幸であった。伊沢は「浜口には金がない、貧乏であるから政党総裁は務まらない」と就任に反対する芝居を打ち、浜口の推薦者たちに「総裁にするなら、君らは全部で党費を作るか」と迫り、資金面から浜口を党全体で支えるよう要求していた。こうして民政党に、政治力と資金力を兼ね備えた浜口総裁が誕生した。

5. ライオン宰相

昭和史において浜口雄幸の存在は際立っている。二大政党制華やかな頃の政党内閣を組織し、ロンドン海軍軍縮条約を断行し、テロの凶弾に倒れた。政党政治家の理想であり、その風貌、政治力からライオン宰相の渾名を付けられたほどである。

浜口は加藤同様に英国型議会政治(二大政党制)こそ政党政治の到達点だと考えていた。そして実際に二大政党制を運用するにあたり、政党と政党政治家の責任を以下のように論じている。

政党内閣制運用の始において、もし政府当局の態度と、施設宜しきを得ず、その誠意と能力を疑わるるに至ったならば、議会政治の信用を失墜し、国民は失望の結果、いかなる事態を発生するに至るやも測り難いのであります。実に今日は我が国民の能力が、果たして政党内閣制の運用に堪えゆるや、否やの試験を受けつつある、最も大切な場合でありまして、政治家の責任、極めて重大なりと言わなければなりません。

政党政治が責任を果たさない場合、国民の政党不信を招くという。その結果は恐ろしいものであると説く。

もし国民が政党政治を信ぜぬということなれば、折角発達の緒に就きかけたる我国の憲政は、再度び逆転せざるを得ないのである。今日の如き社会状態の下において、憲政の逆転を繰り返すことになったならば、その結果は真に恐るべきものがあるであろうと思うのである。

このような危機感を持った浜口は以下のように主張する。

政党の品位を高め、国家の為善良なる政策を行い、政党政治の信用を修復して、以って憲政有終の美を済すは実に我が党の重大なる責任である。

政党政治の信頼を取り戻し、立憲政治を完成させるのが浜口の使命であった。
その為に民政党が掲げたのが政党改良であった。その本義は、一つは政党内閣制、衆議院優位確立にあった。浜口は「内閣の組織はどこまでも衆議院に基礎を置くことが憲法の本義なり」と明言している。
もう一つは政策重視である。政権本位ではなく政策競争を行う事で二大政党制は初めて運用出来るのだ。

そんな浜口がよく口にしたのが責任政治という言葉である。浜口が初当選を果たした15年、浜口は議会の議論を無責任で実行力の無いものだと断じている。
時は藩閥が威を振るっていた時代であり、それを打倒する為に極端な議論が行われていた。それは一つの時代ではあるとしつつ

今後の政治はそんな無責任な言辞を弄することは出来ない。入っては政権を掌り、下っては野に戦うに当たっても、その政見は常に堂々としてかわるべからざるものである。朝に入って直ちに実行の出来ないような議論は、仮令野にあってもこれを唱うべきではなく、その代わり在野当時に主張した主義政見は、政権を握るや直ちにこれを実行に移して、その言論の責を果たさなければならない。それが為には調査を緻密にして、明日からも実行の可能な議論をお互いに発表するようにしなければ真の政治は発達しない。

このように、責任ある議論を議場で戦わせ、国民に広く訴えて審判を仰ぎ、その結果を受けて政策を実現する、責任政治を謳ったのであった。

6. 男子の本懐

29年、天皇の不興を買った政友会・田中内閣が総辞職し、政権は憲政の常道に則って民政党に移り、浜口内閣が組閣された。

浜口内閣の主要政策は財政と外交であった。
財政については日本の宿願である金本位制復帰に邁進する為、日銀総裁である井上準之助を蔵相に起用した。大蔵大臣という内閣の柱石を党外から求めたことには大きな驚きがあった。民政党には財政通が多いことから余計にである。この当時、井上は政友会よりと見られていた(高橋是清によって日銀総裁に二度就任していたため)が、浜口は井上を財政金融に精通した専門家であり、金解禁という困難な仕事を成し遂げれる、信念の人だと認識していた。一方の井上も金解禁をやり遂げる自信があったし、金解禁を成功させることで政界に打って出て、首相への道を開く野心もあった。井上は自ら民政党に入党し、金解禁を断行するのであった。

外交については幣原を起用し、対中外交建て直しを図った。田中内閣は山東出兵の際に済南事件を起こし、それだけでなく関東軍が暴走し満州軍閥の張作霖を爆殺するなど、対中外交の失敗を積み重ね、今や満州・中国本土に排日運動が起こり、対中貿易が悪化するにまで至っていた。この難局を乗り切るために、幣原が再登板したのであった。

浜口内閣の掲げる綱領に国民も全幅の信頼を寄せ、30年総選挙において、浜口に率いられた民政党は273議席という空前の大勝利を収めた。しかし270議席という数字は大きすぎた。国民に選出されたという意識が強い代議士たちを背景に、選挙指導者である安達を推す党人派が存在感を増大させていったのだ。
(なお、当選した代議士が全て党人派となった訳ではなく、官僚系と付き合ったり、風見鶏を決め込んだりして、政友会のような強力な派閥は形成されなかった)
肥大化した党人派の動向に浜口も不安を抱いていた。

多数党の一番の悩み、即ち受難の原因は、外にあらず内にあるということであります。内部の結束の緩みが一番の悩みである。

憲政会時代、加藤は党人派の統制を安達に一任していた。それが成功したのは憲政会が野党であり、なおかつ少数政党であったからだ。しかし政権と270議席という数を得た民政党の党人たちは、地元の公共事業の要求を盾に、政府を突き上げていた。安達はこうした党人派代議士たちの要求と、政府の緊縮財政の関係を調整していたが、もはや安達の手には負えなくなっていた。

これを調整したのは浜口総裁であった。浜口は官僚系政治家と親しい一方、自らは衆議院に議席を置いていた。その理由について

自分は予て政党生活をする以上は衆議院に議席を置くが正当なりと確信して居る

と述べている。これは生涯衆議院議員であり続けた原敬に通じる考えである。政党政治家として筋を通し、選挙の洗礼を受けた浜口の姿勢は、党人派も尊敬の念を以って支持していた。このような性格を持つ浜口だからこそ、党人派と政府の調整に成功していたのだ。

浜口は官僚系と党人派で二分される民政党を統制する強力な総裁であった。しかし、30年11月14日、衝撃が走る。東京駅構内にて、ロンドン海軍軍縮条約の顛末に不満を持つ右翼に狙撃されたのだ。浜口は常々

何れ一度は死ねる命だ。国家の為に斃るればむしろ本懐

と語っていたことから、狙撃の際に「男子の本懐」と呟いたという逸話があるが、浜口の遭難により民政党の統制は揺らいでゆくのであった。

7. 党外人

浜口は命に別状は無かったものの、長期休養は免れない容体であった。そこで政府内では浜口復帰までの臨時首相代理を設置する案が浮上する。
ここで決定的な役割を果たしたのは官僚系政治家である。江木は宮中席次では宇垣陸相ではあるが、宇垣は病気療養中なので幣原外相をが臨時首相代理とすると主張し、党内で調整が図られた。この決定の裏では伊沢が党首脳部の意見を幣原擁立で調整していたのであった。

収まりがつかないのは安達ら党人派である。安達は、政党内閣である以上、党員の閣僚が首相代理になるは当然と主張した。党人派も浜口の次は安達だという暗黙の了解があり、反発が広まっていく。そんな党人派の中でより急進的な少壮代議士の代表となりつつあったのが中野正剛であった。中野は陸軍機密費問題や満州某重大事件の鋭い追及で名を挙げ、民政党期待のホープであった。

31年1月8日、中野は、党籍を持たない党外人である伊沢が、党に無断で幣原を臨時首相代理に擁立したことに対し、以下のように怒りを露わにしている。

党員に非ず、かつ党人たることを恥づと明言する一外交官をして堂々たる民政党内閣を代表せしむること甚しき時代錯誤なりと存候

党外人である伊沢が党外人である幣原を臨時首相代理に擁立することが、党幹部の意思よりも優先される異常事態であると憤った。中野は政党政治の発達を度々口にしているが、党外人が私的に総裁と繋がり、その総裁を通じて重要決定に介入するなど、政党未発達の象徴でもある。そのような前時代的な意思決定を許せるはずがない。このようにして、浜口・幣原・伊沢の個人的な関係を批判する声は、高まっていった。

これまでの経緯から見てわかる通り、党外人である伊沢のような官僚政治家の影響力が強いのが民政党の特徴であった。その理由は、民政党があまりにも伊沢を頼りすぎたせいである。伊沢は民政党の為に、ひいては浜口の為に暗躍していた。
民政党結成後、総裁になれなかった政友本党側の床次竹次郎の脱党問題の際は、伊沢は旧政友本党代議士の慰留に奔走していた。そのおかげで、床次脱党の際には旧政友本党側代議士の脱党は20名程度に抑えられている。貴族院においては民政党の別働隊として動き、貴族院における田中内閣問責決議案可決(水野優諚問題)に暗躍し、研究会非主流派の渡辺千冬の民政党支持を取り付けも成功させている。

浜口も伊沢を相談役とし、組閣方針や閣僚候補について相談し、解散総選挙についても伊沢の意見を参考にしている。個人的な関係があったとはいえ、ここまで浜口が伊沢を頼った理由は、浜口の政党政治家歴が関わっている。浜口は衆議院当選回数4回なのに対し、民政党にはそれ以上の当選回数を誇る議員が多かった。安達に至っては当選9回である。同志会以前から政界に居る根っからの党人達を前にすれば、浜口は若かったのだ。そんな若い浜口総裁を党外にあって支えていたのが伊沢であった。

中野ら少壮党人派は、安達を総裁代理に擁立することを主張した。民政党の党則にあった総裁公選という手段を用いて、安達擁立と民政党の政党としての体裁を整えようとしたのだ。しかし実際には公選もなく、総裁代理が置かれることもなかった。党人たちは江木や伊沢ら官僚系によって、党外人の幣原が臨時首相代理に選ばれたことに強く反発した。民政党九州団体が反対の気勢をあげ、党内の少壮グループも反対声明を出した。民政党分裂の危機の中で、党執行部は火消しに追われた。

政友会は民政党のお家騒動を見て、無力な死骸だと批判し、浜口個人の信望で繋がれていた民政党をここぞとばかりに攻め立てた。
政治評論家であった馬場恒吾は、浜口の遭難に対し、浜口を失いかけただけで民政党がバラバラになりかけていると指摘し、以下のように評した。

党員に変事があると、直ちに統制が乱れるような日本の政党はまた、立憲政治としてまだ充分に発達していないという証拠にもなる

以上のように、立憲政治を謳いながら、党外人へ依存するという矛盾が、民政党内に横たわっていた。その矛盾は浜口の遭難によって噴出しようとしていた。

8. 桂以上の事を言っておる

政府と党の意思がかみ合わない中、浜口に代わって党を統制したのは官僚派の江木である。江木は臨時首相代理問題については幣原を支持したが、党がどうしても収まらない場合は若槻、もしくは党人派の要求する安達総裁代理案を考えていた。
江木は党内の安定を第一に考え、安達と提携関係を結び、幣原に代わる党出身の臨時首相代理設置で、党内の反発の声を収めようとした。官僚派と党人派はあくまで緩い横の繋がりであり、深刻な派閥対立を起こしている訳ではない。党の危機の前にすれば江木も安達も手を結べる関係にあった。このまま党内に江木・安達体制が確立するかに思われた。

当初、幣原は議会開催までという条件で首相代理を引き受けた。幣原は自分があくまで代理であることを強調し、一時事務的に引き継いでいるだけだと語っている。しかし浜口の病状が芳しくなくなかった。
このような状況下で、伊沢は若槻・山本・仙石の民政党長老たちを集め、議会開会後も幣原を続投させることに了解を求め、若槻らはこれに支持を与えた。若槻が幣原を推したのは、幣原が政治的に中立であり、浜口が復帰するまで内閣と党の安定に寄与してくれると信じたからだった。
幣原の臨時首相代理続投に党人派は一切関与出来なかった。この決定に伊沢が関与していた事が判明すると、中野ら少壮代議士は民政党首脳部と対立を激化させる。党出身以外の臨時首相代理はなく、非選出勢力の貴族院議員が総裁問題に介入などとは、立憲政治の否定であると強固に突き上げた。
こうして、党出身の臨時首相代理で党内対立を緩和しようとした江木と安達の提携工作は破綻してしまった。

幣原臨時首相代理で臨んだ議会ではあるが、政府にとっては大変厳しいものになった。政友会は議会が始まると、民政党の入党を拒否する幣原総理代理の政党内閣としての正当性を攻め、安達に対しては幣原首相代理を容認するのかと攻撃した。
幣原が憲政を蔑視しているとの決議案が出される中で、少壮党人派は、党籍を持たない幣原の発言は政府が負うべきで、与党民政党は責任を持つことは出来ないと明言するに至った。
政党内閣でありながら党外人である幣原を臨時首相代理にして議会に臨む事に対しては、著名な憲法学者である美濃部達吉も、以下のように批判している。

政党内閣制の確立を生命として来た民政党の歴史から言っても甚だ遺憾

このように火種がくすぶる中、31年2月3日、衆議院予算総会において大事件が発生する。この予算総会においてはロンドン海軍軍縮条約に関する審議が行われたが、既に消化試合の雰囲気があり、傍聴する議員も少なく、居眠りする者すらいた。そんな弛緩した空気の中、政友会はロンドン海軍軍縮条約批准に対し、海軍は条約兵力量では不足していると言明しているのに、日本の国防は大丈夫なのかと問い質した。これに対する幣原の発言が問題を引き起こした。

この前の議会に浜口首相も私も、このロンドン条約をもって日本の国防を危うくするものとは考えないという意味は申しました。現にこの条約は御批准になっております。御批准になっておるということをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではないということは明らかであります

これにすかさず反応したのは政友会の森恪である。森は幣原を指差し

幣原、取り消せ!取り消せ!

と絶叫した。一瞬何事が起きたかと驚いたが、幣原の発言が条約を批准した責任を天皇に帰する重大な失言だと理解した政友会の委員たちは、発言を取り消すよう総立ちとなり、委員会はたちまち大混乱に陥った。代議士たちは口々に叫びながら首相代理に詰め寄った。
「速やかに辞職せよ」「釈明などの余裕があるか。総辞職あるのみ」「根本観念の相違に取り消しはできぬ」「幣原の決意を聞け」「幣原喜重郎腹を切れ」「陛下に責を帰するとは何だ」「大なる不敬罪だ」「我輩は覚悟があるぞ」「平清盛、弓削道鏡以上だ」「桂以上の事を言っておる」
…議場が落ち着いたところで、政友会の島田俊雄は、幣原の発言を以下のように批判した。

冷笑的態度をとって天皇に責任を嫁し奉るがごとき言動を吐くとは何事であるか。これは幣原首相代理の憲法第55条の輔弼の責任に対する観念の表れである

翌日になっても委員会は罵声と怒号で開会できず、議場には乱闘(刑事事件)に備えて、私服刑事が派遣されるほど緊迫化した。ついには2月6日に予算委員会室で大乱闘が発生し、代議士と両党の院外団は議場の廊下で大乱闘を繰り広げ、多数の負傷者を出した。

政友会は「袞竜の袖に隠れて責めを至尊に嫁するものであり、許せない大失言」と批判し、幣原に対し、陳謝的取り消しを要求した。なんとか予算を通したい政府は、幣原発言を失言と認め、これを全て取り消すことで妥協した。

9. 尾崎行雄の嘆き

この議会は戦前政党政治の分水嶺と呼んでも良い。政党内閣が政党員でない幣原を首相代理として議会に臨み、議会を空転させる失言を行い、それによって大乱闘が行われた。帝国議会においてはヤジや乱闘は珍しくないものであったが、ここまで酷いものは無かった。この醜聞は政党政治の正当性を破壊するものである。貴族院副議長であった近衛文麿が議会の品位と信用を回復するよう、政府と野党と新聞に反省を求める談話を発表したほどだった。

この騒動に最も失望していたのが尾崎行雄であった。尾崎は大正時代の議会の乱闘を議会政治の信用を失うものであると憂慮し、衆議院議長の権威を高めるなどの努力を行ってきた代議士の一人である。
31年2月17日、尾崎は牧野伸顕内府を訪ねた。尾崎は先の幣原失言で両党の仲介をしていたが、もはや自分の力では議会をまとめる力が無いと落胆し、以下のように語った。

我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものなしと思い込み、多年奮闘し来りたるが、事志と違い今日の現状に直面して慚愧に堪えず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国家を思うものは一人もなし

藩閥と戦い続けてきた尾崎が、このような事を藩閥の雄(大久保利通)を父に持つ牧野に吐露したという事実に、牧野は愕然としたという。

もはや、正当性を失った幣原では議会を乗り切ることは不可能であった。政友会は、浜口を出せ、登院できないなら総辞職せよと迫った。政府も浜口の登院を考えるに至ったが、浜口の容体は日々悪化しつつあった。
政府は登院時期に対し何度も声明を出し、一度決まった予定も浜口の病状悪化に伴って見合わされ、議会進行に支障が来すようになった。

3月10日、ついに浜口が登院した。浜口は議会の混乱に危機感を持っていた。

国民の選良の集合たる帝国議会の醜態は、世道人心の上に容易ならざる悪影響を及ぼすのである。こういう状態を以てして、どうして明るく正しき政が出来ようか。余等の理想たる、政治をして国民道徳の最高標準たらしむることが出来ようか

このような気持ちで浜口は登院したが、その様子を見た民政党代議士の斎藤隆夫は

衰弱甚だしい。顔色蒼白殆ど生色なし、見るに堪えず

と不安を漏らすほど、浜口は痩せて衰弱していた。政友会にあって浜口の登院を突き上げていた森も、浜口のあまりの姿に人知れず議場の陰で涙したという。
結局、浜口は質疑に耐えられる状況になく、予算委員会を中座し、4月4日に再入院となる。政友会は首相不在の中、討論抜きに予算通過を図ろうとする陰謀だと騒げば、民政党は首相を登院させて再起不能にしようとしていると宣伝し、議会の混乱は頂点を極めた。

政府は予算案をなんとか通過させたが、労働組合法や選挙法改正、婦人公民権法、小作法といった民政党の掲げた重要法案は軒並み審議未了で不成立に終わり、政党内閣としては最低の結果となった。
政府の失態に俄然攻勢を強めたのは少壮党人派である。中野は党機関紙内において

270名には270名各自の国民的背景がある。卒爾として党外の外務大臣をしてこれを統督せしむることは長袖を着けて鎧武者を指揮せしむるに等しい。それでは党が動かない、従って内閣が引緊らない

と述べて、幣原では民政党を指導することは不可能だと主張した。国民に選出されたと自負する中野は、党外人の幣原によって民政党が機能不全に陥ったと認識した。幣原の責任を糾弾する中野は、総辞職して一旦下野し、出直すことすら主張していた。もはや安達が制止出来ない程強硬な意見であり、急進化した中野たちは安達の足枷となりつつあった。

結局、民政党は浜口無くして党外人と党人の共存は不可能であったのだ。
そしてその浜口の体調は戻る事なく、8月26日にこの世を去っている。

10. 後継総裁問題

幣原臨時首相代理の失態と浜口の健康状態が悪化により、いよいよ後継総裁問題が浮上する。

民政党内では憲政会時代から陸軍大臣を歴任してきた宇垣一成擁立の動きがあり、それを若槻、山本ら長老が推したことで、宇垣の民政党入りのお膳立てが整いつつあった。しかし当の浜口は宇垣を評価していなかった。
浜口は幣原と後継総裁について話し合った際、宇垣は経験不足から推薦する自信がないと漏らしていた。宇垣は三月事件(軍のクーデター未遂)に関与していたという噂もあり、クーデターを起こして政権を奪取しようとした者に政党政治を任せるわけにはいかないのは当然である。浜口の一存による宇垣の芽は無くなった。

では党人達の推す安達なのかといえば、浜口は安達についても、後事を託すに自信がないと述べている。これで安達の芽も無くなった。そこで幣原は若槻の名前を挙げると、浜口はこれに同意し、満足した様子であったという。
こうして、4月13日に若槻は民政党総裁に就任した。

この総裁の決め方は相当問題がある。民政党の党則によれば総裁の決定は公選に依るとしている。それが無視され、密室で総裁が決定したことは、議会中心主義を標榜する民政党にとってはお粗末である。党人たちの頭越しに行われた後継総裁決定に、自然強い反発が起こった。

政府と与党間の意思疎通は失われ、衆議院に籍を置かない党外人勢力によって不明瞭な形で総裁=総理大臣が決定する。政党政治としては異常事態である。
浜口の唱えた政治の公明性は浜口自身の手で遠ざっていたのだ。

なお、安達はこの後継総裁問題については積極的に動くことはなく、むしろ江木と共に若槻擁立に動いていた。これは、若槻が総裁就任を拒否することで、自身に総裁の座が回ってくることを期待していた節がある。
斎藤は安達の野心を見抜き「己れを解せざるものか」と記している。中野ら少壮党人派は総裁公選及び衆議院議員の総裁を強く要求したが、安達が若槻擁立に表面的とはいえ動いたので、若槻の総裁就任を阻めなかった。

11. 浜口内閣総辞職

後継総裁が決定した事で浜口内閣は総辞職した。憲政の常道ルール(政府の政策行き詰まりで総辞職した場合は反対党総裁を、首相の健康状態によって総辞職した場合は与党総裁を首相とする)により大命は若槻に降下するはずである。

だが、問題は政党内閣の正当性に関わってきた。振り返れば田中・浜口内閣の四年感で政治は混乱続きであった。二大政党制は大政党間の競争によって政治を活発化させ、選挙を通じて国民に選択を委ねる機能があったが、実際には政党間の争いが激化し、前議会は近代史上最もお粗末な議会となった。
政党の争いの中、混迷を極める対中外交問題について、外務省は

政争がかくの如く苛烈になるに従って、常に外交問題を政争の具に供されるために、日本の外交の立場が非常に悪くなる虞がある

と批判を高めていた。
政権が変わる度に大規模な地方官更迭が起きる事も問題で、宇垣は

日本人は日本の純良たる国民であり公民であるということが第一であって政党員たることは第二位に属することだ、との諒解が確かり出来て居らぬ。之が政党が自治体に入り経済界を侵すに至るの主因である

と批判しているように、国益を増進させるはずの二大政党間の競争が、逆に国益を損なうようになっていた。

それに、この四年間の政党内閣の政策は効果を上げたとはいえない。田中内閣は山東出兵によって日中関係を悪化させ、浜口内閣は金解禁を断行した事で深刻な不況を招いた。このような失政は政党内閣の正当性を低下させる。

このような情勢の中、後継首班を奏薦する立場にある元老西園寺の下には中間内閣を求める声が多数寄せられていた。これに対し西園寺は

中間内閣については今日所謂政党内閣の成立せる時代においてみだりに之を成立せしむるは却って政界を混乱に陥るるの虞あり。非常時において始めて実現せらるべきものと考ふ。なお、中間内閣の首班たるべき適当なる人物もなしと思う故、之は採らず

とキッパリと否定した。確かに中間内閣を組閣出来るような準元老級の人材(山本・清浦は失格扱い)は払底していた。

西園寺が中間内閣を否定したのは、それだけが理由ではない。西園寺は浜口内閣の政策を強く支持していた。金解禁政策に対しては、以下のように述べている。

井上蔵相の実行せる方針をにはかに変更するは不可なりと思う

幣原についても個人的に信頼を寄せている。幣原と西園寺の関係は、大正天皇危篤の際、葉山に近い所に別荘を持っていた幣原を頼ったことから始まっている。西園寺はこの別荘に聚遠荘と名付けた。その意味を幣原から問われたところ

「遠というのは世界という意味で、世界の望みを貴方が集めているという事です」

と述べた。このように幣原の手腕を高く評価しており「近頃なき出来の良い外務大臣なり」と絶賛している。ロンドン海軍軍縮条約についても高く評価しており

西園寺はまことに国家のために喜んでいる。総理大臣も非常な御苦労であったろう。どうか宜しく言ってくれ

と激励している。西園寺とともに首相奏薦に携わる牧野内府も

財政経済の点が何よりも考慮に置くべく、現内閣の実行しつつある方針に最も近き政策を施行し得べき人選が適当なるべし

と述べ、西園寺との認識を一致させていた。こうして憲政の常道により、若槻総裁に大命が降下し、第二次若槻内閣が組閣された。

なお、この時代、西園寺の信任を得ることは政治的に非常に重要な意味を持っている。それは首相候補として名前が挙がる事を意味していたからだ。そういう意味では、井上と幣原(そして宇垣)は将来の民政党の総裁候補となり得えた。

12. 第二次若槻内閣

国民の声に接する民政党代議士達は、不況の克服を課題とし、政府に対して生活困窮者、失業者、労働者、小作人らの支援策強化を希望していた。しかし、それを実現する労働組合法、小作法案は不成立に終わった。それだけでなく党が掲げた婦人公民権付与、電信電話民営化法案、製鉄合同法案、選挙法中改正法律案といった重要法案が軒並み廃案に追い込まれた。
党の希望は実現せず、党人達は政府に強い不信感を抱いた。

若槻内閣は前議会での重要法案不成立の失敗を踏まえ、行財政整理や税制の改革を打ち出し、浜口内閣以上の緊縮政策を断行しようとしたが、浜口内閣で撤回された官吏減俸案を再び持ち出した事で官界は大反発を起こし、若槻内閣は早くも窮地に立った。この失態に党人たちは、官吏減俸案に何故慎重な態度を取らなかったのかと、厳しく追及した。特に減俸案の責任者であった井上に対する責任追求は激しく、井上が気色ばむ場面すらあった。
中野に至っては、以下のように政府に対して説教した。

政府は政党の基礎に立って政策を実行する時は始めて権威ある行動を取り得流のである

政府と党の対立は省庁再編問題にも飛び火した。6月24日、政府は省統廃合、無任所大臣設置などの行政整理案を公表した。これは拓務省は廃止し、農林省と商工省を併合の上、産業省を設置するなどの案であった。これに対し、一部閣僚は強く反対し、廃止予定の拓省や商相は政務官と一体となって撤回を要求した。民政党内も行財政整理徹底から反対まで様々な意見が飛び交った。閣内・党内は行政整理案を巡って真っ二つになった。安達は党内意見をまとめる立場から、政府と党の意見調整に乗り出したが、もはや安達をもってしても意見調整は難しくなっていた。

このように内閣・与党が混乱したのは、若槻の力不足が原因である。浜口のように、政党と官僚、党人と党外人、分立する党内の調停者として君臨する強力な総裁は既に無く、党の中心は失われ、強引な行財政整理を主導する井上や急進化した中野を統制出来ずに、総裁の統治能力は減退していた。

東京朝日新聞は若槻の指導力に対して

若槻首相に一定の理想がなく、若槻首相に実現の意志力が欠けているからである

と述べ、若槻には大命を拝受した者として責任がないと断じた。

総裁の影が薄くなりつつある中、俄かに台頭したのが井上準之助である。
金解禁を主導した井上の名声は高く、若槻内閣になっても井上財政は継続され、引き続き政府の財政計画を支えていた。元老宮中からも評価されており、将来の民政党総裁、首相候補として名が挙がる存在であった。
それに、井上には財界に繋がりがある上に、腕力もあった。行財政整理を断行するにあたり、以下のように強く語っている。

決意と勇断があってこそ陸海軍の軍事費の節減を軍部側に当然要求出来るのである

若槻の力量不足が明らかになると、政治的に剛腕であり、財界との関係の深い井上が次期総裁候補に挙がるようになる。

31年9月、党内の取りまとめを担っていた江木が病気を理由に辞職すると、いよいよ井上と安達の対立が鮮明になった。両者の争点は緊縮財政である。政府の財政を預かる井上は更なる徹底を主要していたのに対し、選挙で審判を受ける党人を預かる安達は失業対策などの社会政策を重んじていた。安達は緊縮財政に理解を示していたが、選挙を前にして、選挙動静に大きな影響を与える社会政策の実施に大きな関心を寄せていたのだ。

この両者の対立が、後の協力内閣運動の伏線になるのである。

13. 協力内閣運動の始動

若槻は党内を調整出来ず、井上・安達の対立が内閣・民政党内の火種となりつつあった。そんな中、31年9月18日に満州事変が勃発した。中央の統制に従わない関東軍が、勝手に満州を占領しようと暴走し始めたのだ。当初こそ政府は不拡大方針を徹底したが、次第に関東軍に主導権を握られ、満州事変は拡大していった。

事態を重大だと捉えた若槻は内閣の外に働きかけ、山本権兵衛、清浦奎吾ら重臣や犬養、高橋ら政友会重鎮を訪問。この行為について若槻は以下のように回想する。

このようなデリケートな問題を、議会で公言するのは好ましくない。そこで私は、国事に深い関心を持つ人々に、真相を明らかにし、もし政府が代わっても、新たに局に当たる人が、あらかじめ真相を知っておれば、それに越したことはない

当時、政友会には幣原外交を批判し、即時倒閣、政友会単独内閣の樹立を主張する強硬派がいた。その代表格である森恪は「単独でなければいかん」と主張し、久原房之助は若槻を「国家の難局を処理するに適しない」と批判していた。
一方、満州事変という重大事件を受け、倒閣運動を自重して与野党提携すべしという主張が主流を形成し始め、一部代議士達は協力内閣を構想して民政党との接触を始めた。

そんな中、10月17日に、橋本欣五郎ら参謀本部の将校らによるクーデター未遂事件が勃発した。世に言う十月事件である。これに素早く反応したのが政友会の犬養毅総裁である。犬養は軍部の行動を非常に憂慮した。十月事件を竹橋事件になぞらえ「党派関係に超越し、専ら国家本位の心を以て」事件の後処理を行う決意を固める。後処理とは陸軍の根本組織を変更して統制を回復することであるが、それを為すには政友会単独では不可能である為、協力内閣を構想した。
10月18日、犬養は代議士たちに対し

かういう時局重大な時には、とにかく一段落つくまでは政府を支持して行かねばならん

と述べて、若槻内閣支持を表明し、協力内閣運動を後押しした。

一方、宮中も独自の関与を行おうとしていた。牧野内府は御前会議や重臣会議のような政党内閣を超える権威によって事態の収拾を図ろうと考えていた。しかし若槻も犬養もこれを望まず、内大臣府秘書官長であった木戸幸一も

責任内閣制の樹立せられたる今日、重臣会議の如きは屋上屋を架するの嫌あり

と述べて、反対している。そこで次善策として考えられたのが内閣強化であった。英国では世界恐慌を乗り切るために国王が政党間の対立を調整して挙国一致内閣を誕生させていた。牧野もこれに倣い、若槻、犬養両総裁を召して注意を与え、協力内閣を樹立させようという案を検討し始めていた。

政友会・宮中ににわかに台頭した協力内閣運動に対し、若槻は与野党連立に否定的であった。とはいえ民政党単独内閣で満州事変を解決する見通しもなく、辞意を漏らすようにもなっていた。これに対し、協力内閣による打開策を提案したのが安達であった。安達は現職大臣の立場から、政権を破壊する様な政党同士の連携を手控えていたが、事態の深刻さを受け、民政党単独政権の維持に固執しない、新たな政権の枠組みを考えるようになっていた。
安達は内相として過激的な右傾・左傾思想に触れる中で、そのような思想が登場する責任は政党と政党員にあると考えるようになった。つまり、政治家の汚職や議会での乱闘、外交・財政政策の失敗が、思想悪化と軍部の激化を産み、ひいては議会政治への信用を失墜させたと見ていた。そこで安達は井上財政と幣原外交を転換し、議会政治への信頼を回復すべく二大政党が協力して危機に対処しなければならないと認識するに至った。
安達の提案に対し若槻も同意した。この時、若槻は協力内閣に同意した理由を、関東軍を協力内閣によって国民全体の意思で押さえ込むためだと回想する。井上財政継続や衆議院の解散回避を条件に協力内閣構想を支持し、協力内閣誕生となれば若槻は引退する決意でいた。

若槻の同意を得た安達は、両党の連立賛成派の支持固めを図った。その結果、政友会からは古参議員を中心とする床次派を中心に100 名ほどの参加が見込まれ、民政党からは250 から260 名の議員の参加が見込まれる試算となった。

14. 人格化されたルール

こうして民政党・政友会・宮中において協力内閣運動の機運が高まった。ただ、協力内閣運動にはどうしても乗り越えなければならない壁があった。それが首相奏薦権を持つ西園寺の合意であった。

11月1日、西園寺は興津から上京した。この上京は天皇の言動を諌める目的であった。満州事変以来、天皇は牧野内府を通じて、首相や陸相を集めて意見を聞く重臣会議を構想していた。これに対して西園寺は、天皇と閣僚の意見が違う場合はかえって良くないと考え「欽定憲法の精神に瑕をつけないように」と釘を刺した。

11月2日、西園寺と安達が会談した。安達は挙国一致、協力内閣の必要性を説いた。そして協力内閣の具体案として、若槻内閣が総辞職し、大命降下の際に天皇が若槻・犬養の両総裁を召して、宜しく協力して政局に当るべきを御下問し、連立内閣を組織させるという方法を披瀝した。つまり隈板内閣(第一次大隈内閣)の再来である。
西園寺はあくまで井上財政・幣原外交を評価し、内閣の更迭を希望せず、若槻が引退したいならば幣原を立てて乗り切ればいいと、協力内閣については消極的な考えを持っていた。ただ若槻に明確な辞意があり、若槻も犬養も協力内閣を望んでいる中、敢えてそれに反対する理由もない。

西園寺は協力内閣運動に一つだけ注文をつけた。それは、天皇が直接協力内閣を命じる案に対してである。仮に協力内閣が失敗した場合、組閣を命じた天皇に責任が帰してしまう。天皇を政治に巻き込み、憲法の精神に傷がつく、西園寺にとって、それだけは何としても避けなければならなかった。この事について、後に西園寺はこのように述べている。

大隈、板垣の内閣の時のように、陛下が重臣を召して、二人に内閣を組織しろ、と言われた例もある、という者もあるかもしらんけれども、今日の如く既に立派に憲法政治が完成している以上、絶対にさういうことをする事は出来ない

そこで西園寺は、このような提案した。

若槻が動いて犬養を説く、と言って、それが出来るならこれは止むを得ないじゃないか

二大政党が天皇を介さずに自発的に提携し、その結果として連立内閣が成立するならば、それを認めようというものだ。

近現代の政治史・政党史の大家である升味準之輔は西園寺を「人格化されたルール」と表現した。この表現ほど的確なものはない。全ての政局は、首相奏薦権という強力無比な権限を持つ西園寺というルールの範囲内で行わなければならない。そして協力内閣運動に対する西園寺のルールは、天皇の政治介入が無い範囲で行われる事、というものであった。
こうして西園寺も条件付きながら協力内閣運動にお墨付きを与えた。二大政党による自発的な提携が期待できる状況において、協力内閣構想は非常に有力であった

15. 協力内閣運動の座礁

一方、陸軍中央では関東軍の暴走を止めるべく、金谷範三参謀総長が内閣と連携し、関東軍の統制を取り戻そうとしていた。陸軍中央がこのような姿勢に出た為、十月事件で現実性が増した、関東軍に呼応して日本国内でクーデターが図られるという危険性は当面去った。

すると、政友会内部では、若槻内閣倒閣による政友会単独内閣樹立に向けた議論が活発化した。特に倒閣派の急先鋒であった久原の奔走が目立ち、10月28日には犬養から、党内の意見が一致すれば異議はない、との言質まで取っている。
10月30日、久原は政友会総務会で、金輸出再禁止と自主外交確立の二点からなる新政策を定義した。これは井上財政と幣原外交の完全否定であり、到底民政党が受け容れられるはずがない。政友会内の協力内閣派は倒閣運動であると抵抗したが、結局、倒閣を第一義としないことで久原らに押し切られた。こうして政友会は協力内閣構想を放棄し、倒閣、政友会単独内閣に舵を切った。

11月10日、政友会は議員総会にて、金輸出再禁止の即時断行を決議した。この党議を受け、犬養も協力内閣構想を断念した。犬養は協力内閣構想は内閣延命措置であるとし、以下のように断じた。

挙国一致または協力内閣は痴人の夢也

11月11日、犬養は西園寺の秘書である原田熊雄に対し「やはり政策が違うから、連立は難しい」と述べ、財政政策を理由に協力内閣構想を否定した。

民政党内でも協力内閣運動に暗雲が漂い始める。
11月9日、安達は協力内閣について反対しないと声明を発表し、安達に近い党人派の協力内閣工作の動きが新聞で大々的に報じられた。安達の声明により協力内閣構想が水面下で進展していたことを知った政府閣僚たちは、一斉に協力内閣反対を唱えた。特に強固に反対したのは井上と幣原である。仮に協力内閣となれば財政・外交が修正を余儀なくされるからだ。というのも、金本位制の重要国であった英国が金輸出再禁止を発表し、井上財政に対する疑いの目が強くなっていた。満州事変も裏を返せば幣原外交の行き詰まりの結果である。財政・外交の修正は非常に強い説得力を持っていた。

井上・幣原は現在の財政・外交方針が最も適当であると、協力内閣構想に明確に反対した。内閣の柱石である井上・幣原の反対を受け、一度は協力内閣構想に賛意を示した若槻も翻意した。民政党内には、与党の優位な立場を投げ捨てることに否定的な一派も根強く,安達が200は固いと見ていた民政党内の協力内閣運動派の中にも、連立政権より自派の優勢を維持できる民政党単独論を主張する者が日増しに増えつつあった。

11月14日、若槻は議員総会の場で「全力を挙げてこの難局を処理すべき堅き決心を有している」と演説し、政権担当の決意を表明した。協力内閣構想の放棄である。
この若槻の態度に対し、協力内閣運動に関わっていた党人派たちは総会を欠席し、安達は態度を硬化させた。

連立パートナーとなるはずの政友会では協力反対,倒閣論が台頭し、民政党も若槻が政権継続の意思を固めた。閣僚たちは単独政権論を前提に、安達への説得に向けて協議を重ねるようになる。両党において協力内閣から単独論が優勢になった事は、安達の一つの誤算であった。

16. 井上の剛腕

こうして両党首は11月初めには早々に連立内閣構想を放棄した。この時点で協力内閣は実現不可能となったが、原田は西園寺に対して「今日のままの内閣で議会に直面するのは全く危険なことだ」と述べて、協力内閣構想を力説していた。

原田が西園寺に対して協力内閣を説こうとしたのは、原田と親しい木戸と近衛文麿が協力内閣構想を抱いていた為だ。宮中のホープである近衛らは若槻内閣を無気力であると全く評価しておらず、若槻を更迭し、より強力な協力内閣・挙国一致内閣によって軍部を統制し、政局を打開することを望んだ。特に木戸は若槻の態度を「他力本願なるは面白からず」「甚だ頼りなき心事を聞き、遺憾千万なり」と憤ってすらいた。

近衛たちは協力内閣構想の最大の障壁を経済政策だと見ていた。民政党と政友会の経済政策の差異は埋めがたいものがある。そこで11月17日、井上蔵相を訪問し、協力内閣構想の説得に乗り出した。これに対し井上は

此以上の強力なる内閣の実現は、目下の処想像し得ざるなり

と述べて、若槻内閣の支持を表明。協力内閣構想に対しては

何も軍部を掣肘し統制せむとする強力なるものには非ずして、むしろ軍部に媚むとするもの

と強く批判した。説得に来たはずの近衛たちは、井上の気迫に押され、協力内閣構想を放棄し、井上の態度に共感を示した。以降、近衛らは若槻内閣の継続を支持し、安達らの協力内閣構想に批判的な態度を取るようになる。
11月18日、原田は西園寺に対し、協力内閣運動を「すべて軍部の歓心を買うもの」と批判している。井上の受け売りもいいとこであるが、井上の政治的手腕を物語る上で無視できないエピソードの一つである。

17. 臨参委命

11月上旬、南満州を抑えた関東軍は、北満洲を伺う姿勢を見せていた。
11月16日、南次郎陸相は関東軍に北満州のチチハル占領に許可を与えるよう要求した。南のスタンドプレーに幣原ら閣僚はこれに強く反対し、若槻も内閣総辞職の切り札に手を掛け、陸軍に圧力をかけた。
これを受け、金谷参謀総長は関東軍の北進を止める為に、関東軍に対する統帥命令権の一部を一時的に参謀総長に委任する臨参委命を用いて、参謀総長自ら関東軍に対し直接命令を出せるようにした。
そもそも参謀総長は大元帥(=天皇)の幕僚長であり、出先軍に対する直接の命令権はない。その命令権を有するのは大元帥ただ一人であり、参謀総長は勅を奉じてそれを伝える、所謂奉勅命令の伝宣の形で命令を下していた。参謀総長の臨参委命による現地軍の統制は、日露戦争時に天皇の負担軽減と、作戦用兵上、臨機応変を必要とする観点から行われたことがある。
それを持ち出してきたという事は、金谷が関東軍司令官の頭越しに満州事変をコントロールしようとする強い意志が見られる。

11月25日、なおも北満州から撤退しようとしない関東軍に対し、金谷は即時撤退と残置部隊の二週間以内の撤収の命令を下し、これを即時実行せよとの臨参委命が下った。関東軍司令部はこれに衝撃を受け、命令に従うことにした。金谷の強い意志により、関東軍の北満州進出、満州占領の計画は崩れようとしていた。

この情勢に出淵勝次駐米大使は「満州事変には目鼻がついた」と明言し、スティムソン米国国務長官に対し希望の兆しが見えたとも語っている。

18. 総論賛成各論反対

このように情勢が目まぐるしく変わる中、西園寺はどう考えていたか。
11月18日、宇垣と西園寺の会見の中にその考えが見れる。

この会見の中で、宇垣は挙国一致により国難に当たることを西園寺に進言した。これに対し西園寺も挙国一致は時節柄望ましいと述べた。ここで宇垣は西園寺と挙国一致内閣について意見が一致したと錯覚した。
ただし、これは西園寺の老獪な話術である。西園寺は相手の意見に対し総論賛成で歓心を買いつつ、各論反対を積み重ねて総論反対を行う癖があった。首相奏薦権を持つ西園寺の下には、西園寺に気に入られようと軍部・政界・官界あらゆる方面から人物が集まった。西園寺は彼らをして公平公正な元老であると信用させる為に、いつしかこのような話術を使うようになっていた。

よって、この時も宇垣の意見に総論賛成しつつ、各論反対で自らの意見を披瀝してゆく。まず西園寺は挙国一致について「しかしながら手段に就て名案がない」と実現性の低さを指摘した。元老の斡旋により連立内閣を組織するという手段についても「一歩誤れば煩累を皇室に及ぼすの恐れある」と反対した。そして、協力内閣は「当然両党首の発動によりて起こるべき筋合いのものである」としつつ

けれども両党首にはそれだけの勇気も手腕もない様である

と協力内閣の成立に否定的な見方を示した。天皇の政治介入は絶対に不可という西園寺ルールの下、協力内閣に対する両党首の同意に至らなかった事、若槻の辞意が撤回された事で、西園寺は若槻内閣の継続支持に立ち戻っていた。

西園寺の総論反対に気づかず、宇垣は西園寺が協力内閣を望んでいると判断し、自身の持論でもあった協力内閣実現の好機とみて、若槻・犬養の説得のために上京するが、これは完全に徒労であった。両党首の説得に失敗した宇垣も、協力内閣構想を断念した。

若槻も犬養も西園寺も宇垣も協力内閣構想を断念する中、安達と党人派だけが協力内閣運動に邁進していた。11月21日、安達は陸軍大演習から帰京後、協力内閣に関する声明を行った。

外交にも財政にも最善を尽くしてきたが、今後も形勢に順応し、難局を打開するについて、革新と実力とを有して居る

この文章は中野派で作成されたものであり、中野が安達に対して強引に発表させたものである。わざわざ外交・財政の名を挙げている通り、幣原・井上への対決姿勢を露わにした声明であったが、この時点で協力内閣の気運は消え去っていた。

11月22日、若槻は安達に対し、協力内閣は実現不可能だと述べ、安達以外の閣僚も内閣の継続を主張した。民政党幹部会も政府支持の方針を決定し、協力内閣運動は表面上沈静化した。そして、政府の方針に従わず、協力内閣運動を推し進める安達に対する責任論が吹き上がってゆくのである。

19. スティムソン失言

米国は満州事変を注視していた。中国の門戸開放・機会均等を掲げる米国にとって、満州における軍事行動は無視できない。日本政府は関東軍の北進を何とか阻止できたが、南進して張学良の本拠地である錦州に迫るのではないかとの懸念した。
そこで11月23日、スティムソン米国務長官はフォーブス駐日米大使を通じ、錦州進撃に対して政府に事前に警告を発した。
これを受け幣原外相は金谷参謀総長に対し、錦州を攻撃する意志がないと確約させた。参謀本部も参謀総長が外相に錦州を攻撃しないと確約したと関東軍に説明し、錦州攻撃を強く戒めいていた。このようにして若槻内閣は政軍が協調して関東軍の統制を回復しつつあった。

しかし11月28日、事態が一変する。米国時間11月27日、スティムソンは記者を前に談話を発表した。その内容が28日の夕刊にて以下のように報じられた。
スティムソンは、満州事変以降の日本軍の行動について、政府の完全な統制下に置かれていない軍部の一部が早まったとの印象を得ているとしつつ

今よりわずか三日前に受けた日本の誓約は、文武両当局の極めて明白なる確約を内容とするものである

と述べ、その詳細として、去る23日、錦州攻撃のおそれありと報道を手にしたスティムソンは幣原に対し警告を発したが、これに対して幣原は24日、日本は錦州方面の進撃を行う意思はないと回答した。

幣原外相は右回答中において、日本政府は満州の日本軍司令官に対し右の趣を既に発令せりと言明したのである

これを受け、平和に対する進歩が行われていると信頼していると述べた。

ここで重要なのは、日本が政府・軍部両当局の明白なる確約を内容とする誓約を交わし、それを政府が関東軍に発令したことである。これは日本の統帥事項に関わることであり、米国の国務長官が公表してはいけない内容である。

ただし外務省はこの重大な問題に気づいておらず、錦州にて事態が発生する前に、幣原が錦州方面に進撃を行う意志がないと回答したことを公表するのは失言であると、ズレた抗議を行っている。これは、外務省がスティムソン談話を要約した際に、統帥事項に関わる政府・軍部の明白なる確約や関東軍への発令の下りが抜け落ちた為であった。

日本側からの抗議を受け、スティムソンは釈明会見を開いた。
そこでスティムソンは日本の外務省が先の談話を誤報していると指摘し、改めて事実を整理した上で、24日に幣原外相がフォーブス駐日米大使を通じ

錦州に対しては軍事行動を起こさないよう外務大臣並びに陸軍大臣、参謀総長の間に意見一致し、その旨出先司令官に命令したとの言明があった

と述べたことを明かした。ここにスティムソン談話で曖昧な表現となっていた「文武両当局の極めて明白なる確約」なるものが「外務大臣並びに陸軍大臣、参謀総長の間に意見一致」であることが明確になった。それだけでなく、それを関東軍司令官に対して命じたことも、幣原がそれを米国に内報していたことも明らかになってしまった。

この釈明会見に幣原は驚愕した。外務省はすぐさま、スティムソンの声明は全くの事実誤認で、何故そのような発言をしたのか理解出来ないと声明を発した。
幣原は直ちにフォーブス駐日米大使と会見し、以下のように述べた。

本大臣が軍部より錦州進撃差控方満州軍司令官に命令ありたる内情に付き、貴大使に打ち明けたるは、当時繰り返し念を押したる通り、全く貴大使並びに米国政府の限りの内密の報道にして、国務長官がこれを新聞記者に公言せらることあるべしとは全く予想せらりしなり

スティムソンの記者会見は、外務省が軍部や世論の批判を受け、幣原の進退問題に発展するだけでなく、錦州問題の解決も収拾困難になる恐れがあると忠告した。フォーブスは24日の幣原の話を本国に伝える際、内密であると付け忘れる手落ちをしていたので、それを謝罪したが、もはや手遅れであった。

スティムソン失言事件により幣原の軍機漏洩、統帥権干犯事件として喧伝され、幣原の政治生命に致命傷を与えた。それだけでなく、参謀本部は米国国務長官に圧力をかけられて錦州攻撃を中止したのではないかと疑いの目を持たれ、それを厳命した金谷にも致命傷を与えた。もはや金谷の発する臨参委命の権威は失われ、誰も関東軍を統制することは出来なくなった。
南陸相は政治責任を追及されることを恐れ、関東軍に宥和的になる、12月7日には関東軍に対し錦州作戦の発動を認めている。

20. 若槻内閣総辞職

政府は満州事変不拡大方針が維持できなくなり,再び窮地に陥った。井上蔵相の緊縮財政・行政改革方針への反発も強く、予算編成は困難となっていた。
11月30日、井上蔵相は相続税やガソリン税などの増税を提議し、民政党との協議が行われた。これに対して党幹部は増税案を含む井上財政に強く抵抗し、歳入不足を関税税率修正で補うよう与党案を突きつけ、安達もこれに同調した。井上はこれに対して容易に妥協する姿勢を見せず、内閣と与党の対立は緊張を深めた。
政府与党間の不協和音、閣内不統制、財政経済政策の行詰り、対外政策の外務省軍部の対立など混沌とする中、次期議会の乗り切り困難を予見した若槻は、12月に入ると協力内閣運動に対し「若し出来るとすれば」との関心を示し、再度協力内閣賛成の意志をほのめかすようになっていた。若槻から協力内閣賛成を遠回しに伝えられた安達は、若槻に協力内閣断行の決心を迫った。

そんな折、協力内閣運動は思わぬところから再燃する。
12月9日、政友会の強硬派の中心にいたはずの久原が協力内閣論に鞍替えし、民政党の富田顧問の間で協力内閣に関する覚書が取り交わされたのだ。その内容は、政友会・民政党両党の何人に組閣の大命降下があろうとも、閣僚の選考は両党首協議して均等とする事、という連立内閣の原則方針が示されていた。この時、久原は犬養があくまで協力内閣に反対するならば、高橋是清を擁立する方策も考えていた。
久原と冨田は双方党内において非主流派に属しており、協力内閣運動を通じて彼らが主導権を握る思惑もあった。
12月10日、富田は久原との覚書を若槻に示した。そして協力内閣の信を問う為に、解散総選挙を断行すべきだと主張した。これは英国のマクドナルド挙国一致内閣に倣ったものである。しかし衆議院絶対多数を放棄しようとする主張に党人たちは反発し、斎藤隆夫は若槻に協力内閣を拒絶するように進言した。
12月11日、若槻は安達を除く党出身閣僚を招集して協力内閣反対方針の合意を取り付けた。その上で安達を呼び出して、一切の協力内閣運動の中止を要請した。
直前まで協力内閣に色気を見せていた若槻の翻意に安達は憤慨して閣議を欠席し、単独辞職の勧告をも拒否した。もはや一時たりとも井上財政・幣原外交を続けるわけにはいかないという決意の表れでもあった。閣内不一致は明白になった。

こうして12月11日、若槻内閣は総辞職した。

21. 憲政の常道の揺らぎ

憲政の常道に依れば、若槻内閣は閣内不一致という行き詰まりで総辞職したので、政権は反対党である政友会に移行するはずである。このルールが確立されて以降、第二次加藤、第一次若槻、田中、浜口、第二次若槻と、首相奏薦はスムーズに行われてきた。
しかし今回は様子が違った。12月12日、首相奏薦の為に上京する西園寺は、原田に対し何度もこれでいいのだろうかと聞いていた。

昨夜から色々考えてみたが、結局犬養の単独より方法がないぢゃないか

原田は、西園寺が首相奏薦でここまで悩むのは前例のない事であると記している。
西園寺は若槻内閣の総辞職を聞いて悩みに悩んでいた。この時、西園寺には3つの選択肢があったのだ。

1つは若槻への大命再降下である。若槻は総辞職前に原田に対し

閣僚の一人にかくの如き異論のある場合は安定しないから、どうか辞めてもらいたい

と述べて、総辞職によって安達を罷免する事を示唆し、西園寺に話を通すように念を押している。この手法は後に第二次近衛内閣が松岡外相を罷免する為に総辞職した事で取られている。若槻は自身の辞表に「不統一」の文字を使用せず、牧野内府は大命再降下を期待したものだと推測した。

2つは憲政の常道に則って犬養を奏薦する事である。従来の憲政の常道ルールであれば、これが最も自然であり、西園寺の肚の内も犬養奏薦に決まっていた。

3つは協力内閣実現である。満州事変と恐慌という未曾有の危機にあって、二大政党が連立内閣を組織し、強力な指導力を発揮させる手段である。

上京した西園寺は牧野内府、一木喜徳郎宮相と会談し、首相奏薦について話し合いを持った。三者はまず若槻への大命再降下は問題にならない事で一致した。若槻内閣は誰が見ても閣内不一致で総辞職している。その事実を曲げて安達のみの辞表を認めるのであれば、政友会の反発は必至であるし、政治判断の責任が元老・宮中に及ぶからだ。

問題は後継内閣を協力内閣とするか政友会単独内閣とするかであった。牧野は「協力の精神に基づき組閣するよう」に協力内閣を希望し、西園寺から犬養を説得するよう求めた。これに対して西園寺は「薩長の内閣の時分を見ても、なかなか組み合わせということは難しい」と述べたが、牧野の提案を容れて犬養と面会をしている。西園寺は犬養に対し協力内閣の意思があるか確認したが、犬養はかえって内閣が不統一になると反対し、犬養の返答を聞いた牧野も政友会単独内閣を了承した。

西園寺や牧野が最後の最後まで悩んだ通り、憲政の常道は正当性を失いつつあった。憲政の常道で誕生した政党内閣はいずれも失政を犯していたからだ。
第一次若槻内閣は台湾銀行救済緊急勅令案を巡り枢密院と衝突し、昭和金融恐慌を引き起こした。田中内閣は山東出兵の中で済南事件を起こし、対中外交を悪化させた。浜口内閣は金解禁を断行し、日本史上最も悲惨な昭和恐慌を招いている。そして第二次若槻内閣は満州事変という外なるクーデターの収拾に失敗し、軍部の統制を失った。この間に政党は疑獄やスキャンダルの暴露合戦を行い、国民の不信を買い続けていた。
憲政の常道では国難を収拾出来ない。そのような空気の中、説得力を持ったのが協力内閣運動であった。

中野正剛は協力内閣について、以下のように述べている。

両党交立を憲政の常道だとすれば、連立は確かに常道ではない。しかし今日我が日本の境遇が常道でない以上、常道ならざる非常手段を政治上に取ることがむしろ当然である

未曾有の国難の中、単に第一党から第二党へ移譲するだけの憲政の常道は、もはや旧式の政治論に過ぎなかった。

12月13日、東京朝日新聞も以下のように憲政の常道を論じている。

国民は今や少数党の組閣を不思議とせず。また解散による新しき議会の構成を必ずしも切望しないというまでに形式的多数党を信ぜず、総選挙による民意の発現を信ぜざらんとしているのである。これが憲政の危機でなくて何であろう

こうして憲政の常道は、様々な立場から疑問の眼差しを向けられるようになる。そして犬養内閣が軍部クーデターという非常手段で斃れると、憲政の常道の正当性は全く失われ、西園寺は挙国一致を選択するのであった。

22. 犬養内閣以外の可能性

関東軍の統制を失いつつある中、事変は上海に飛び火し、もはや犬養内閣では事態を収拾出来ない状態になりつつあった。事ここに至って、犬養は、大元帥である天皇自らが陸海軍に自制を命じるしかないと考えた。しかし、天皇に政治的な累が及ぶことを恐れた西園寺がこれに待ったをかけ、内閣の責任で事態を収拾させようとした。犬養はこれに応え、上原勇作元帥に働きかけるなど必死の抵抗を続けたが、その努力は515事件によって水泡に帰した。

犬養の要請を不意にしたように、西園寺は天皇の政治介入については一貫して反対し続けている。

陛下からどうかという風なことになると、あるいは神聖なるべき天皇に責任が帰して、即ち憲法の精神に瑕がつくことになるが、瑕のつかぬようにして何とかならないものだろうか

また、若槻が清浦・山本ら重臣に接触した事に対しては

ああいうことをすれば、動きたくてムズムズしている老人たちが喜んで動き出す。そうして重臣会議とか元老会議とか、あるいは御前会議とかいう風な形をとって、自分たちで御奉公したい、という感じを起こさせる

西園寺は元老候補であった清浦・山本を、その政権運営を見て失格の烙印を押し、元老制度を自分限りで廃する決意を固めていた。

そういう形を作った後の元老なり重臣なり、そういう先例を残して慣行にしたい、あるいは慣行にしたということが、将来の政治を汚し、立憲政治の精神に反するような空気を作ることとなれば、一層戒めなければならない

このように西園寺は、元老・重臣のような個人に頼ることや、天皇の政治介入は憲政を逆行させ、憲法の精神を傷つけるものだと見ていた。

確かに西園寺の言うことは最もである。ただしそれは内閣が並立する諸機関を統制出来る平時の話である。満州事変により関東軍は統帥権を盾に政府の方針に従わず、他国の領土を侵略し、政府はその既成事実を追認するしかなかった。このような状況に至って、帝国憲法の制度の中で内閣の力は微力であったし、原や加藤のような豪腕を持つ政治家も払底しつつあった。

内閣が有事を前に後退する状況にあって、これを打開する方法は二つある。
一つは天皇による調停である。帝国憲法は分立する諸機関の対立を天皇が調整する事を想定しており、明治天皇は実際に度々調停者として君臨している。西園寺がこれを嫌ったのは、自らが大正政変の際に、大正天皇の勅を反故にし、天皇の権威を大きく傷つけてしまったからであった。昭和初期、軍を中心に昭和天皇は軟弱であるとの不敬な中傷が広まっており、天皇の権威は確立出来ていなかった。
そのような中で天皇が政治に介入し、仮に調停に失敗するようなどのような事になるか。皇室を重んじる西園寺の憂慮も分からなくもない。(無論、国家があって始めて皇室があるので、国家の非常事態にあって何を言わんやである)

西園寺が天皇の政治介入をあくまでも否定するのであれば、打開の方法はもはや政党に大連立を組ませる挙国一致・協力内閣しかない。そもそも協力内閣は民政党の党人たちが推し進めた事から、議会政治擁護の色が強かった。安達は協力内閣の声明の中で以下のように述べている。

国民の信念と決意とを示す上において、政党の協力を基礎とする国民内閣を必要とする場合が生じたならば、いつでもこれに応ずるに決して躊躇するものではない

馬場恒吾は安達が協力内閣を推し進める理由を、以下のように代弁している。

安達が惧れる所は,議会で泥仕合をやつてゐると議会否認の声が高まり,終に議会政治を滅ぼすに至ると云ふことにある

協力内閣が実現すれば、議会を背景にする強力な内閣が誕生する可能性があった。

勿論、協力内閣運動に問題がなかった訳ではない。運動の中心にいた中野は、対外強硬的であり、幣原外交を軟弱であると断じ、満蒙問題については以下のように主張している。

我が国の外交官が連盟に臨みて姑息なる弁解のみを事とし、軍部がその弁解を蹴飛ばして、次から次に外交上の言質を破壊するの観を呈するは面白くない。すべからく内閣において一定の方針を決定し、外務、軍部一致協力して、全国民の意志を徹底せしめねばならぬ

更に協力内閣が不首尾に終わった理由を、西園寺が端的に語っている。

責任ある総理大臣が反対であり、野党の総裁がやはり反対である、という事が明らかである以上、いかに安達や久原がもがいても、事が出来ないのは当然ではないか

宮中元老の介入によって協力内閣が成立した場合、政党はなおも党派の争いを行って国民を失望させるのか。それとも議会の力を結集し、国民の輿論を背景として軍の統制を取り戻し、国民の信頼を取り戻すのか。果たして想像はつかないが、戦前の歴史において、政党が手を取り合って危機を乗り切る機会は永遠に失われた。

まとめ

浜口は議会中心主義を唱え、以下のように主張している。

立憲政治下における政戦は極めて簡単である。即ち政策を掲げ、言論文章を武器として国民に訴ふる外に手段はないのである

それでは民政党の実態はどうであったのか。中野は以下のように語る。

民政党は立党の精神を失念して、幣原外交と井上財政の委任統治下に置かれていた。幣原男は思慮周密なる紳士的外交家であるが、自ら党人たるをいさぎよしとせずと声明した人である。井上氏は民政党の結成、在野時代の悪戦苦闘には、何ら参画する所なく、何ら体験する所なき外来人である。しかして代議士270名を擁する民政党は、これら党外人の委任統治に支配されたものである

民政党は役員公選の原則を掲げていた。それにより役員は党員の信任を得て責任を明白にし、党員の総意に依りて党の意思決定に反映させる仕組みが出来ていた。国民の信任を得た責任ある代議士たちによる議会中心の政治こそが立党の精神である。しかし実際には、国民の代弁者である党人の総意は無視され、官僚の代弁者である党外人が幅を利かせていた。そして、協力内閣運動において党外人に党人は敗れた。議会主義にとって大きな挫折であった。

270名の多数も、正義を上下に徹底せしめて、真に国民を率いるのでなければ、何事をもなすことが出来なかった。少数も天下の信望を繋ぎ、天下を指導するを得れば、以って政治的強力を発揮することが出来る

誰よりも民政党の精神を尊び、議会主義を標榜した中野は、協力内閣運動の敗北を通じて衆議院絶対多数の無力を感じ、以降、強力政治、一国一党、ファシズムに傾倒してゆく。

こうして立憲政治の完成、政党改良を目指した浜口の路線は、正反対の結果を迎えるという悲劇の結末を迎えた。

参考文献

「憲政常道と政党政治」 小山俊樹
「政党内閣制の展開と崩壊」 村井良太
憲政の常道を知るには以上二冊は必読である。

「立憲民政党と政党改良」 井上敬介
民政党について。これを読めば民政党についてだいたい知る事が出来る。

「政党内閣の崩壊と満州事変」 小林道彦
満州事変における政軍関係について。

「協力内閣運動と安達謙蔵の政治指導」 原田伸一
「第二次若槻内閣期における議会政治の擁護」 原田伸一
「二大政党制下におけるガバナンス構築の失敗 : 民政党内閣を例に」 原田伸一
民政党の抱える問題を理解するに適切な論文である。

「加藤高明と政党政治 二大政党制への道」 奈良岡聡智
「浜口雄幸 たとえ身命を失うとも」 川田稔
「伊沢多喜男 知られざる官僚政治家」 大西比呂志
「幣原喜重郎と二十世紀の日本」 服部龍二
憲政会・民政党に関する人物評伝。

「外交官の誤解と満州事変の拡大」 坂野潤治
スティムソン失言の問題性を指摘した古典的論文。

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