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遅効性の毒

傷と膿

傷は負った時よりも膿んだ時の方が痛い。

なんらかで傷を負った時は負っていると気づいていない場合の方が多くて、人から指摘されたりバイ菌が入り気づいたら手に負えないぐらい膨れ上がっているとか、とにかく気づいた時には自分ではもうどうにも出来ないぐらい痛んでいる。

紙で指を切った時よりも、紙で指を切ったと気づいた時の方が痛い。
からかわれた時よりもあとから、あれがからかいと気づいた時の方が悔しくてみじめな気持ちはいつだってあとからやってくる。

あれは意地悪だった?それとも、ただの冗談か?冗談にしては酷い言い草だなあ。いやでも、私が悪かったのかもしれない。あの時私も相手にとって嫌なことをしたかもしれない。でもいくらなんでもされたことは許せない。でも、私もそのあと同じことを人にした、気がする。もっと酷いこともしたかもしれない。でも許せない、あの時の言葉を、許せない。思い出すだけで苦しい、嫌だ、でも認めたくない。自分の非を、相手を許したくない。

でも、だって、の苦しみに焼かれている時が最も痛くて苦しい。


白い彼岸花、美しい。

相手だって同じ苦しみに焼かれているかもしれなくても、すっかり忘れてすがすがしい今日を生きてるかもしれなくて、それは知りようがない、わたしにはわからない。わからないことはとても怖い。
思い出は美化される。
私はただ相手の名前も、顔も、何も覚えていないのにすっかり怒りの矛先をなくした思い出と怨みのみで自分を縛っている。

私の背骨から腰骨にかけては一時的にボルトとナットが入っていた、今は取り出されているが。
それはかつて私がおかしくなった証拠である。私はきっと誰の助けも借りずひとりでにおかしくなったが、心で育ち根を張り気づいたらどうしようもなくなっていた感情に水をやった人々は確かに存在した。彼彼女らは今もきっと生きている。

育っていた植物に水をやっただけでは悪意ではきっとない。

赤い彼岸花

好きだった人がずっと私の中で好きなままかなんて、私が好きだったあの人のままでなんて居てはくれないだろうが、憎くてたまらない人もずっと私の中ですら憎いままかなんてそれも分からなくて、きっと生きていく中であっさり好きになってしまったり、その人に対する感情を失ってしまう。

対人のすきやきらいはとてもエネルギーを使うのだ、私は自分自身の中の思い出を憎みつづけるだけであり、対象を憎みつづけることは私にとってすごくつらい、その人の人格や人生を否定してしまったら、なぜだか私も否定しまっているようで……私と同じ部分がある人であったら、私と似た分だけ刺した釘が私に返ってくる気がしてならないのだ。

どうして嫌なことって、1度思い出したらたくさん出てきてくるんだろう。

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