なる様にしかならない
いつの頃からか世の中は「なる様にしかならない」と思っていた。
恐らく小学校の高学年の時にはそういうことを口に出していた様に思う。
私にとって「なる様にしかならない」とは、絶対的な宿命論ではない。
むしろ「一念三千」という意味として使っている。
最もこの一念三千という考え方自体は、元々のサンスクリットの経典には無く、鳩摩羅什による法華経の漢語訳出時に出来た教理展開の一つ、「十如是」から来ていると言われる。
さてそんな考え方をしている私から見て、世の中というのは心に映る心象風景ということになる。なぜならば、「一念三千」という考え方をとっている為だ。
そういう考え方をなぜか誰にも教えられないまま、「人間というものは関係性の中でしか自分を認識できない。」「その為、縁という物の結節点の中でしか”生”も感じることができない。」という考えを持っていた。
中学生の頃だった様に記憶する。
言わば、「空」の思想である。
中二病の時期に私は、そういう人間であった様だ。
過去生という言葉を素直に受け入れられる人と、そうではない人がいることは承知している。私は東アジアの仏教圏で育ったせいもあるが、抵抗感なく受け入れられる。
どうも早期にその様な人生感を持っていたのは、幼稚園時での母方の祖母の死もある程度影響あると思うが、それだけでもない様に思うのだ。
「何のために生きているのか」
恐らくこんなことを考えるのは、人間だけだろう。
今生のテーマは何であるのか。
そんなことが中国の古典にも書かれていて、面白い。
ところで、これは108つ目の投稿である。
煩悩の数だけ書いたことになる。
投稿のスピードを落とすかもしれません。
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