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藤原定家から正岡子規まで
文学史の勉強をしていると、おやっ、と思うことがあります。
少なくともぼくが高校生だった頃の参考書では、和歌と現代の短歌のあいだがすっぽりと抜け落ちていたのです。具体的にいえば、藤原定家、『新古今和歌集』から明治に正岡子規が出てくるまでの約700年が空白になっていました。ただ、そのあいだの歴史区分である室町時代や江戸時代には和歌にかわって俳諧、松尾芭蕉や与謝蕪村が取り上げられます。ちょっと勉強すると、連歌という形式もあることがわかりますが、全体的には和歌→俳句→短歌という奇妙なねじれがここにはあります。学校の教科書を思い出してほしいのですが、紀貫之や額田王のような「和歌」と正岡子規や斎藤茂吉やひょっとしたら穂村弘などの「短歌」は別々にジャンル分けされていた気がするし、「俳句」は俳句で独立して紹介されていた気がします。江戸時代には和歌は存在していなかったのでしょうか。
この記事は、『新古今和歌集』の時代、藤原定家が没してから正岡子規が出てくるまでの時代を繋ぐために書かれています。
短歌に興味を持ち始めると、どうやら桂園派という人たちが歌壇を牛耳っていて、正岡子規や与謝野鉄幹といった明治の旗手たちはその桂園派を論敵としていたことがわかってきますが、肝心の桂園派が何なのかは、よくわかりません。香川景樹という人名にはアクセスできるのですが、そこから先は芒洋としています。
論敵とはいいつつ、正岡子規は『歌よみに与ふる書』で完全に香川景樹をやっつけているわけではなく、
香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。
と認めてもいます。
香川景樹に辿りつくために、まずは700年前、鎌倉時代へ遡ってみましょう。
和歌が国政と切り離せなかった時代、国家事業として勅撰集を作り上げていた時代。歴史が苦手な人は、まず鎌倉時代に躓いた経験があるのではないでしょうか。これまでは奈良や京都でだけ話が展開されていて、いま首都のある東京の話はほとんど出てはこなかったのに、急に鎌倉という場所が登場し、将軍という役職が現れてきます。ぼくは天皇と将軍の違いがよくわからず、とにかく国に二箇所(関東と関西)、大切な場所があるようだ、ということしか認識できないような小学生でした。この小学生時代のぼくの混乱は、そのまま国の展開とも重なってきます。鎌倉時代、室町時代、江戸時代と、大将軍たちが政治を行う幕府が敷かれるようになり、京都の貴族文化は衰退していきます。文化の一極集中の時代は終わりを告げたのです。文化史に興味が薄い人たちは、ここからの時代がやっと面白くなってくるはずです。源義経や弁慶、織田信長や明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の、血で血を洗う戦乱の世がはじまります。
そんな時代のはじまりに『新古今和歌集』は編纂されます。勅令をくだしたのは後鳥羽院、編纂したのは藤原定家をはじめとした御子左家でした。
御子左家、という名前がいきなり出てきました。あらゆる道は分岐していく運命にあります。『ONEPIECE』のタイガーの意志が、ジンベエとアーロンに別れたように、『DRAGONBALL』の武泰斗の意志が亀仙流と鶴仙流に別れたように。『るろうに剣心』で剣術が、活かす剣・神谷活心流と殺す剣・飛天御剣流に別れたように。
御子左家は、そのように分化したいくつかの流派のひとつだと、とりあえずは認識しておいてください。そして、ここから先の700年は、御子左家の嫡流である「二条派」が一本の槍のように時代を貫いていくことになります。
少し話を進めすぎましたが、とにかく『新古今和歌集』は八代集最後の勅撰和歌集として、異様な完成度をもって編まれます。ひとえに、藤原定家の、アンソロジストとしての才能、造詣の深さによるものでしょう。藤原定家が写本をさせたことによって残っている古典文学が山ほどあります。この人がいなければ、なくなってしまった文学作品は山ほどあったでしょう。なにせ、超新星爆発を後世に伝えるような豪運ももっていた、「美の使徒」です。
ここで小休止して、ぼくのことを話します。
ぼく(かみしの/上篠翔)は大学時代に源実朝の私家集、『金槐和歌集』の研究をしていました。そもそものきっかけが太宰治の『右大臣実朝』だったこともあり、アプローチもかなり小説のような方法だったおかげで、あまりよい研究にはならなかったのですが、それでも源実朝のことが大好きでした。
大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも/源実朝
を初めて知ったときの衝撃といったら筆舌に尽くし難くて、すでに穂村弘の「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」を鑑賞したことのあったぼくですが、そのときよりも深い、深い衝撃だったわけです。ぼくは、完全にこの鎌倉の早逝の大臣と重なった、と思った。カート・コバーンに自らを重ね合わせるみたいに、20歳のぼくは源実朝に自らを重ね合わせたのでした。
結局、研究したのは「黒」という題辞が記された、
うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる/源実朝
です。「黒」なんていう歌題はほとんど前例がなく(九条良経の『秋篠月清集』にはある)、結句以外のすべてを、とにかく「黒」の言い換え表現で埋めている。ぼくが黒色が好きだから、という事情は置いておいて、あの実朝がただ手遊びにこういうことをしているのでは無い気がしてたまらず、自らの境遇を込めたのではないか、そして「白」の題でよまれているのは後鳥羽院なのではないか。将軍でありながら、どうしようもなく宮中の文化に惹かれ、立場から叶わなかった実朝の哀切なのではないか。そういうことを研究した大学生でした。
そういうわけで、多少は和歌に関する知識がありますが、なにぶん十年近く前なので、いまではさらに研究が進んでいる部分も多くあるでしょう。
閑話休題。
藤原定家の子、為家、その子為氏は、自らの子為相を溺愛します。ここから、さらなる分派がはじまることになります。嫡流の二条派、庶流の京極派、冷泉派。このうち、冷泉家はいまでも京都に、現存する最古の公家屋敷として残っています。しかも、ぼくの通っていた大学のキャンパスに食い込む形で。門があいているのをほとんど見たことがないし、いつでも静かな邸宅でした。冷泉派は冷泉派で面白いのですが、ここでは二条派と京極派について、簡潔に書いてみます。
そもそも、どういう短歌が二条派で、どういう短歌が京極派なのでしょうか。
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水/式子内親王
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ/藤原定家
こうした静かな、いわゆる「幽玄」な歌いぶりは、『古今和歌集』の歌と比べてみるとより際立つかもしれません。
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの 香ににほひける/紀貫之
比較するとわかりやすいのは貫之の歌だと思います。プロフェッショナルな意識はだんだん、さまざまな技法を開発していくことになります。本歌取りや体言止めであり、幽玄な歌いぶりです。丸谷才一が指摘するように、『新古今和歌集』というのはまさにモダニズムの歌集で、実験的な歌も多くなってきます。
対して、京極派の和歌はどうでしょうか。
木々の心花ちかからし昨日けふ世はうすぐもり春雨のふる/永福門院
山もとの鳥の声々あけそめて花もむらむら色ぞみえゆく/永福門院
花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり/永福門院
わかりやすいのは字余りや「むらむら」のような表現上の挑戦です。たいてい、字余りというのはア行の母音が含まれているときのみに許されていました。しかし、京極派の歌人はだいたんな字余りや、幼くも思える表現を積極的に取り入れます。時間感覚や実景の捉え方の繊細さも特徴ですが、とにかく、停滞していた歌風に一石を投じたのが京極派でした。『風雅和歌集』『玉葉和歌集』が歌集としては残っています。三島由紀夫や塚本邦雄、折口信夫は京極派を高く評価します。
しかしながら、京極派はこの二冊の勅撰集を残し絶えてしまいます。その背景には南北朝時代という特殊な政治体制がありました。二条派は南朝に、京極派は北朝に結びつき、統一された際に、正統な流派として二条派が採用されてしまいました。このあたりの歴史は、日本国の天皇制の歴史にも深くかかわる部分ですので、京極派はながらくタブーであった、という話もあります。詳しくは「南北朝正閏論」で検索をしてみてください。京極派は最近になって、ようやく再評価されてきたところです。
二条派に話を戻しましょう。
二条派は藤原定家の曾孫で為氏の子・二条為世に引き継がれます。「古今伝授」というのが二条派を継いでいく際の儀式のようなものでした。『古今和歌集』の注釈を、秘伝として伝えていくのが古今伝授です。二条家は為世-為道-為定-為遠と続いていきますが、為遠の代で足利義満の不興を買い、その子為衡で途絶えてしまいます。為遠は当時の関白・二条良基に疎まれてしまいます。ややこしいですが、この「二条」は二条派の二条とは別の系譜になります。
ここで「古今伝授」の伝統は途絶えてしまうかと思いきや、為世は時宗の僧である頓阿に、その秘伝を伝承していました。頓阿は清涼殿には上がることのできない地下・庶民の出身でしたが、晩年には二条良基に保護されることになります。為遠を疎んだ、あの二条良基です。ちなみに、「地下」家に対して、清涼殿に上がれ、公家になるような身分の殿上人のことを「堂上」家といいます。この単語はのちのち出てきます。
頓阿は息子たちに古今伝授を行い、曾孫・尭孝の時代には、戦国時代初期の武将・東常縁に伝承されていきます。足利家は、八代の足利義政の時代になっています。応仁の乱が起り、戦国の世が幕を開くような、そんな時代に東常縁は生きていました。
東常縁はさらに、連歌師の宗祇に古今伝授を行います。
連歌。室町時代に隆盛を極めたのは、和歌ではなく連歌でした。室町の武将たちは、575・77を何人もで作り上げていく連歌という形式に熱中していたのです。先ほどからよく名前が出てくる二条良基もまた、連歌を嗜み、連歌の基礎を作り上げた人物でした。彼が主体となって編纂した『菟玖波集』は初の准勅撰連歌集となります。連歌のはじめの575の部分(発句)が、やがて俳句という独立した文芸になっていきますが、これはまたのちの時代の話となります。
宗祇は多くの人物に古今伝授をします。もう、なんとなく想像がつくかもしれませんが、二条派もまたさまざまに分化していきます。いまは正統とされているようなラインの話だけに留めておきますが、この宗祇から古今伝授は系統が別れていくことになります。公家だけでなく、町民にまで広がっていくことになりますが、ただ紙切れが入っただけの箱が引き継がれていくような内情であったともいいます。いつの間にか、古今伝授は芸術のための芸術ならぬ、伝統のための伝統になっていったのではないかと思います。しかし、伝統の護持は日本という国を成立させていくための至上のミッションでもありました。
宗祇は公卿の三条西実隆に古今伝授を行い、その孫、三条西実枝にまで相伝されていきます。実枝は幼い息子にこれを相伝する代わりに、武将・細川藤孝、通称細川幽斎に古今伝授を行います。足利義輝に仕え、のちに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人たちと親交を結んでいきます。細川幽斎といえば、その息子の忠興の夫人・ガラシャのエピソードが有名です。明智光秀の娘ガラシャは石田三成の軍勢に追われ、屋敷に火を放ち自害します。幽斎は京都の田辺城に篭城し石田三成の軍と睨み合いますが、もしも幽斎が死んでしまうようなことがあれば、古今伝授の伝統が途絶えてしまいます。それを憂慮した後陽成天皇は勅令によって、幽斎を保護します。関ヶ原の戦いがはじまる数日前のことでした。
このようにして、古今伝授の伝統は朝廷によって守り抜かれてきました。幽斎はその後、実枝の息子、その息子・実条に古今伝授の伝統を返します。後陽成天皇の兄弟である八条宮もまた古今伝授を受け、後陽成の息子・後水尾天皇は八条宮から伝授を受けることで、二条派は御所で生き抜いていくことになります。このように、二条派は常に「堂上」の傍にありました。そして大切にされてきたのは『古今和歌集』でした。
江戸時代になると、国学が盛んになり、賀茂真淵は『万葉集』を再発見します。本居宣長もまた賀茂真淵の研究を引き継ぎ、『万葉集』の注釈を綴っていきます。馬淵の門流である県居派は、のちに宣長の鈴屋派、加藤千蔭、村田春海らの江戸派などに分派していきます。この派閥は『万葉集』に準拠し、国粋の論調の強い人たちでした。
こうして江戸時代には古今伝授の「堂上派」、国学者の県居派と分化した鈴屋派、江戸派などさまざまな流派が起こっていきます。
こうしたなか、日常的で卑近な題材、声調を重視するという主張をもってあらわれたのが、香川景樹でした。
実条の孫、という伝承のある清水谷実業は、地下である香川家に二条派の教えを伝えます。香川景樹はときどき公家の歌会に列席し、本居宣長とも邂逅します。ただ、香川景樹がもっとも影響を受けたのは和歌四天王であり、ただごと歌を提唱した歌人・小沢蘆庵でした。「堂上派」は擬古典的であり、雅語や題詠を重視します。伝統的であるとは、そういうことです。これに異を呈した小沢蘆庵は堂上派からは破門されます。もっと自然な題材から浮かび上がる感情を歌にすべきである、といったのです。馬淵の県居派も万葉ぶりを大切にしており、小沢蘆庵の、そして香川景樹の考え方には反していました。あれだけ批判される桂園派も、もともとはモダンで、当時の「現代的」な派閥だったというわけです。香川景樹の桂園派が大切にしたのは『古今和歌集』でした。地下である桂園派も『古今和歌集』を聖典にしていたのは、ちょっと面白い話だと思います。ただどの部分を尊重するか、というのは違ったのでしょう。桂園派はとにかく「声調」を尊重しました。香川景樹は口語を和歌に、理論的に取り入れた初期の歌人です。
明治維新とともに、この桂園派は御歌所に召し抱えられ、宮内省派として重用されていくことになります。地下の桂園派が、国家の一部となって取り込まれていきます。『古今和歌集』の権威が伺いしれます。薩長藩閥と桂園派は蜜月の仲となっていきます。初代御歌所所長であり、桂園派の歌人・高崎正風は薩摩藩出身の志士。対する正岡子規は伊予松山藩の出身。伊予松山藩は幕末は幕府側につき、薩長討伐に赴いた側の存在です。正岡子規の桂園派批判には、こうした政治的背景もあったはずです。
こぼれ話ですが、桂園派の理論書を著した内山真弓は信濃の出身で、信州での桂園派を主導しました。長野県には強力な桂園派の論客がいたわけです。高島章貞という桂園派歌人もまた信州で活動をします。最後には毒殺されてしまいますが、信濃国には桂園派が広く流布されていました。
正岡子規の『歌よみに与ふる書』の連載の二年後、信濃にはアンチ桂園派として「この花会」が結成されます。「この花会」を主導したのが、財布を共有するほどの仲であり、のちに論戦を交わすことになる「アララギ」の島木赤彦、「潮音」の太田水穂でした。
ここでの記述は2025年1月現在のデータを元にしています。今後の研究で、ここに書かれていることは刷新されるかもしれません。いまのところは、このようにして藤原定家の時代から正岡子規の時代まで短歌の歴史は繋がってきています。