あしたから出版社
読むタイミング、というのは絶対にあって、たとえばたまたまアートに携わる友人と話した日だったから、だとか、上野の現代美術家たちの展示を見た日だったから、だとか、ナナロク社の造本展を見た日だったから、だとか、今年で三十三歳になるから、だとか、生きていることの、日々の偶然性のどこかでたまたまその本の描く曲線と交わった瞬間、本は火花を撒き散らす。
島田潤一郎の『あしたから出版社』はそういう本だった。
友人の展示が行われている高円寺、そぞろ書房の天井近くに置かれていた朝色の『夏葉社日記』を、駅前の喫茶店で一気に読み終える。夏葉社の島田潤一郎に惚れ込んだ秋峰善さんが、ひとり出版社である夏葉社の手伝いとしてはたらき、過ごした時間を書いたものだ。夏葉社には、一日に数分、本を読むためだけの時間がある。そこで秋さんは『野生の思考』や『言葉と物』のような難しい本ばかり読んでいる。面接の際、「難しい本を読んでください」と言われていたからだ。なんてうらやましいんだろう、と素直に思った。これは自分語りなのだけど、ぼくは最近「仕事中本の話ができますよ」という誘い文句の職場に応募し、書類で落とされた。こんなひどい話ってあるか、と思った。自分でいうのも恥ずかしいのだけど、ぼくくらいそうい環境を求めている人間もいないだろう。でも、なんというか、そういう気持ちだけではあらゆることはなんともならなくて、ぼくが本を好きである、というこの感情はつむじ風みたいにその場でぐるぐると留まり続けているだけだった。はたらくことの一環として、本を読む、という状況を想像してみたことはあるのだけど、実際に像を結ぶことはなかった。その理想的な世界がひとつ、ここにはある。『夏葉社日記』を読んで矢も盾もたまらずに、駅前の文禄堂に駆け込み、島田潤一郎『あしたから出版社』とたまたま今月の文庫として置かれていた『古くて新しい仕事』を買い求める。
もちろん、ただ気楽なだけではないだろう。全国各地へ飛び回り営業をして、時にはひどい言葉を浴びせかけられて、すごすごと帰っていく。『あしたから出版社』にはそういうことも書かれている。それなのに、島田潤一郎の文章には不思議に多幸感がある。決して楽しいことばかりが書かれているわけではなく、むしろ、死んでしまった従兄のことがその文章を貫いているはずなのに。
一冊の本を手に取る。その背後には本当に多くの人がいる。気を抜くと、ぼくはその本と、つまりぼくと著者のセカイ系に浸ってしまう。それは決して、悪いことではない。ぼくがこうやってぼくであれるのは、そういう認識で孤独とやりあってきたからだからだ。でも、その世界は、実は編集者が、デザイナーが、卸業者が、校正者が、その文章を世の中に出そうと思ってくれたはじめての読者がいて、そうして出来上がったものなのだ。文学フリマで同人誌を作り、それを買おうかどうか品定めしてくれている人の、その指先を眺める時間。もっと以前の、自分の文章がはじめて印字されたときの、この社会に入っていけた感じ。忘れかけてしまっていたその手触りを、思い出す一冊であった。
夏葉社を知ったのは、点滅社の『鬱の本』に参加したからで、島田潤一郎を知ったのは『夏葉社日記』を読んだからだ。 ロックンロールが鳴り止まないように、島田潤一郎という人の作るものは、本人が言うように、確実に、遠くの、近くの誰かに届いている。ふと自分の本棚を見た。伊藤整の『近代日本の文学史』。これは出た当時、つまり十年近く前に手に取った本で、理由はたったひとつ、近代文学が好きだったからだ。出版社は夏葉社。なんだ、気がつかないずっとずっと前から受け取っていたんじゃないか、と思った。